舟歌い

舟歌い 第13話「第12章」

潮の匂いがまだ手のひらに残っていた。朝靄の中、下町の桟橋はぎゅうぎゅうに詰まった小舟と人の声で波打っている。サラは濡れた麻の袋を肩に掛け、舷側に立つと目の前の光景を一つ一つ確かめた。助けられた家族の顔、まだ震えている老人、抱き合って眠る母と乳児——今、彼女がしたいことは単純だった。より多くの人を高い岸へ運ぶこと。安全な場所に置くこと。守るべきは、ここで助けを求めた人々だ。だが、それを妨げるものは一つあった。声の届かぬ混乱と、彼女の歌の限界だ。

潮の匂いがまだ手のひらに残っていた。朝靄の中、下町の桟橋はぎゅうぎゅうに詰まった小舟と人の声で波打っている。サラは濡れた麻の袋を肩に掛け、舷側に立つと目の前の光景を一つ一つ確かめた。助けられた家族の顔、まだ震えている老人、抱き合って眠る母と乳児——今、彼女がしたいことは単純だった。より多くの人を高い岸へ運ぶこと。安全な場所に置くこと。守るべきは、ここで助けを求めた人々だ。だが、それを妨げるものは一つあった。声の届かぬ混乱と、彼女の歌の限界だ。

「ルカ、ここに二人、ミナはあの角で合図を——分散させるんだ。聞こえればいい。聞こえさえすれば」

ルカは肩まで波打つ長髪をかき上げ、息を切らしながらうなずく。彼は漁師見習いで、手のひらに漁網の痕を残している。ミナは商人の娘で、声は小柄だが眼差しがきつい。三人は小さな合図旗と、サラが持つ半分だけの舟歌を書いた薄紙を交互に確かめた。紙の文字はかすれ、旋律の下半分だけが残っている。誰もがそれを完全な曲だとは思っていない。だが、その欠けた部分が、今は逆に合理的だった──完全な歌はまだ危うい。共同の訓練の成否が、人々の生命線になる。

「始めるよ」サラは深く息を吸い、背筋を伸ばした。喉が乾いている。声を出すと、彼女の内側で何かが震えた。二人以上が同じ旋律を歌うと、水面に短い航路が立ち上がる。だが独唱は水を荒らす。互いの声が聞こえなくなれば、航路は逆流する。彼女はそのルールを、何度も自分の体で学んできた。今日もまた、その薄い線の上を歩くような気持ちであった。

ミナがそっと合わせ、ルカが唇を噛んで低く歌う。サラは自分の半分の舟歌の文字を舌先で確かめながら、三声を合わせた。声は手旗の小さな合図と並行して、狭い水路に光る縞を作る。舟と舟の間を縫うように、航路が立つ。人々が小さな歓声を漏らす。その瞬間、サラはいつも思う。これが独りではない力の形だと。

最初の搬送は滑らかだった。幼い女の子が母の腕に抱かれて、一隻に乗せられる。老人が杖を舵に掛け、もう一隻は満員で岸を目指す。歌が終わり、航路が消えると、乾いた足音と笑い声が町に戻った。互いに目を合わせ、乾いた笑いを交わす。小さな勝利だった。

だが、勝利の後はいつだって余波が来る。人が安心すると誰かが大声を出す。誰かが余裕を持てば、違う誰かがパニックに飲まれる。港の向こうで鉄の軋む音がした。上町側の補修工事だ。大きなクレーンが古い橋桁を持ち上げ、金属がこすれる音はあたりに二重三重の波を作った。サラはそこで初めて不吉な予感を抱いた。音は声をかき消す。小さな笛や旗で合図を出しても、歌声の共鳴は破られる。

「声が届かない!」ルカが叫ぶ。だがその声はサラの耳に届かず、ミナの細い歌は工事の喧騒に沈む。サラは急いで手旗を振ろうとした。旗は一瞬、見えた。だが見えたのはほんの一瞬で、波間に飲まれるように消えた。

「やめて!」子どもの声が割り込んだ。痩せた少年が小さな木箱を抱えて走ってくる。顔は真っ赤で、目は大きく開いている。トモだ。サラはその名前を聞いたとき、胸が締め付けられた。トモは夕べ彼女に小さな飴を分けてくれた子だった。彼がここにいることを知っていた——だからこそ守らねばならなかった。

だがトモは走りながら突然歌い始めた。口ずさむ声は高く、慌てた旋律だ。独唱だ。誰かが遊び心で——いや、トモは恐怖で何かを落ち着かせようと必死だったのかもしれない。サラは本能で叫んだ。だがその叫びは、工事の音と混ざって届かなかった。

水面が変わった。航路が、穏やかに光る線から荒れる渦へと変じる。独唱は水を攪乱する。トモの声が単独で響いた刹那、すぐ近くの小舟がふらつき、綱が緩んだ。人々の叫びが空に飛び交い、混乱が始まる。舵を取っていた男が足を滑らせ、バランスを崩す。サラは何もできず、歌声が喉を塞ぐような痛みを覚えた。彼らは訓練していた。だが訓練は完璧ではない。現実のパニックは、小さな穴を突いてくる。

「トモ!」サラは突っ込んでいくことしか思い浮かばなかった。だが彼女は同時にルールを知っていた。もし一人で声を出して水に向かえば、より大きな波を呼ぶ。胸が引き裂かれる気持ちと、論理の冷たい壁がぶつかる。ミナがルカの腕を掴み、二人が必死で同じ旋律を合わせようとした。だが工事の轟音は彼らを引き裂き、音は一列にはならなかった。歌は聞き合えず、航路は逆流した。

小舟がひとつ、岸の岩に押し付けられ、木製の側面がきしむ音を立てた。人が叫び、糸が切れ、荷物が水に散った。トモの持っていた木箱がはずみ、子の足元から滑り落ちた。彼はあっという間に人混みの中に消え、腕に抱えていた飴の残滓だけが泡とともに漂った。

目の前の光景がスローモーションになった。ミナの顔が青ざめる。ルカは舵を離して慌ててトモのいた方向へ跳んだが、波に揉まれる人々に阻まれた。サラは喉が乾いて、舌が動かなくなるのを感じた。自分の歌を出すことが、今は致命的なのだと胸の底から知っている。だが、何もしなければ幼い命が——。

「ここで歌うな!」誰かが叫ぶ。だが誰もそれを止められない。喧騒が増し、別の子が泣き出し、母親が子を引き寄せる。全員が互いの声に浸食され、聴き合う余裕を失っていた。サラは手旗を放り、走り出した。歌を封じられ、彼女の体はただの人間として波間へと突っ込む。

波が冷たかった。岸へ向かって走る人々の影が、運悪く水面で交差した。トモの姿がそこにはない。サラは叫びながら水中に手を伸ばした。濁った水の中で、小さな木片と絹の切れ端が指先を擦った。だが指はすぐに離れ、冷たい流れが指先をそぎ落とす。トモはそこにいなかった。

男の腕がサラの背を掴み、無理やり引き戻した。息が詰まりそうだった。彼女は振り返ると、岸にいるミナの目が激しく揺れていた。ミナの口は震えている。彼女は何かを握りしめていた——トモの小さな帽子だ。絹の縫い目が潮を含み、そこに小さな指紋がついている。泥と塩が混じった跡だ。誰かがそれを見つけて岸へつなげたのだろう。帽子の縁には子どもの小さな指跡が二つ、濡れた跡として残っていた。

サラはその指跡を見て、胸を突かれた。指跡は小さく、無力で、しかし確かに存在していた。彼女は自分が歌うたびに誰かを守ると誓ったはずだ。今、その約束を果たせなかった。喉が絞まる。目頭が熱くなった。だが声は出ない。使いすぎたわけでも、喉がつぶれたわけでもない。ただ、唱けば水は荒れるという理性が、動けという衝動を制しているのだ。

「皆、落ち着け」声が震えながらも出る。サラは自らの喉を感じた。出すたびに体が少し痺れるような、耳鳴りがする。能力を乱用した代償がじわりと効いてくる。短い間の勝利と引き換えに、肉体は疲弊する。これはいつか代償を伴うと知っていたが、今はそれが他人の命と直結していることが痛い。

ミナが口をきく。「声が聞こえないなら、行動で示せることをやろう。水葬のラインを作り直す。索を渡して、子どもの名前を呼ぶのよ。探すんだ、歌じゃなくて手で」

ルカは顔を顰めた。「でも航路がないと対岸に行けない」

「航路は私たちだけのものじゃない。私たちの歌は道を作る。でも今は歌以外で動く。ここで待っていても仕方ない。サ