道化師 第15話「第13章」
窓から差し込む薄明かりが、埃を帯びた稽古場の床に長い影を引いていた。木の椅子が十脚ほど乱雑に並び、壁には薄れたポスターと、ぽつんと掛かった一枚の仮面――泣いている仮面がぶら下がっている。仮面の目は黒く、口元だけがぎこちなく笑っているように見えた。稽古場の空気は静かだが、そこにいる全員の鼓動が互いを押し合っているのがわかった。
窓から差し込む薄明かりが、埃を帯びた稽古場の床に長い影を引いていた。木の椅子が十脚ほど乱雑に並び、壁には薄れたポスターと、ぽつんと掛かった一枚の仮面――泣いている仮面がぶら下がっている。仮面の目は黒く、口元だけがぎこちなく笑っているように見えた。稽古場の空気は静かだが、そこにいる全員の鼓動が互いを押し合っているのがわかった。
「行くべきだ」――口に出したのは、トールだった。筋骨隆々の少年で、言葉は少ないが判断は早い。彼の声が言葉以上に重く伝わると、空気が狭くなった。
レムはその言葉に頷いた。声はない。彼は小さな黒板を取り出し、白いチョークでゆっくりと文字を書いた。線が擦れる音だけが、稽古場に響く。
「宮廷に入る。金の壺を確かめる。壊さない。」
その文字を読んだシオンが、眉を寄せる。シオンは抜け目のない女の子で、笑いを作る才能は群を抜いていた。だが今は笑わない。彼女の鼻先にそっと置かれた仮面が、わずかに震えた。
「壊さない? 奪って壊せば、終わりじゃないのか」ヨナが声を荒げる。ヨナは舞台の小道具を取り仕切る少年で、怒りは正義感から来ていた。
「壊せば、壊れる」レムは黒板に書き込む。「壺は、ただの器じゃない。証拠だ。儀式を止めるには、語りを変える必要がある。」
稽古場の扉がぎい、と音を立てて開いた。外から押し込まれてきたのは、まだ息の荒い男だった。指先は縄の跡にかすかに赤みが残る。彼を抱えるようにしていたのは、昨夜捕まえた密輸団の一人、クレイだ。クレイは薄笑いをたやさないが、眼は氷のように冷たかった。
「言うんだろう?」クレイは男を押し付けるようにして言った。「何を見た、誰に命令された。黙ってどうする」
男は顔を上げた。瞳の底に灯ったのは、怯えでも憎しみでもなく、重い後悔だった。彼はおぼつかない声で言った。
「王の……儀式を見た。金の壺。大勢で、笑いを集めていた。あれは……思い出を、変えるためのものだった」
その言葉は稽古場の空気を固めた。誰もが動けなかった。レムはじっと男を見る。男の唇が震え、次の言葉を探した瞬間、彼の表情が俯瞰的に変わった。苦悶がふっと緩み、ある種の奇妙な安堵が訪れたのが見てとれた。
それは、レムの能力の起動する瞬間だった。相手が自分の痛みを口にした――その瞬間に、レムは相手の痛みを笑いへ変える幻を見せることができる。強要はできない。痛みを認めない者には届かない。だが今、この男は自らの痛みを口にした。レムは視界に映る男の内面を、薄い幕のようにすっと引き寄せた。
男は、小さな声で笑った。笑いは震えて、笑い声には届かない。だがその笑いの中に、彼が見てきたものの輪郭が浮かんだ。王座の前、列をなす壺、壺の底で揺らめく光。その光が、誰かの「思い出」を撫でるように吸い上げ、別の形の記憶として戻す。記憶はひとつの物と交換され、かつての痛みは消える。その代わりにどこか別の欠落が生まれる。男はそれを見せられたのだ。見せられることで、彼の痛みは一時的に軽くなり、笑いに似たものに変わった。だがその笑いは、自由ではない。
「言ったのか」シオンが首をかしげる。声には疑念と恐れが混じっていた。
男は喉を鳴らし、浅く笑った後、目に溜まった涙を拭った。彼の手が震えていたが、言葉は次から次へと出てきた。儀式の日取り、壺の形、運ばれてきた壺が七つだったこと。壺には細い金色の線が刻まれ、仮面のような意匠が付いていたこと。そして、その壺が「忘却を与える代わりに若さをもたらす」と王側が言ったということ。
「七つ」トールが低く言った。「十三じゃないのか?」
「十三脚の椅子」レムは黒板に小さく走り書きする。十三脚の椅子――彼らが今まで小耳に挟んできた言葉が、ここで色を成して戻ってくる。幕裏に並ぶという椅子と、数の齟齬が気になる。男は肩をすくめ、記憶の断片をつなげようとするように言葉を探した。
「壺の数は変わる。全部を並べる日もある。だが儀式は、確かに壺を用いて行われた。壺が満たされると、ある者の記憶が薄れた。別の者は――若さを取り戻していた。王の若さだ、あいつの顔だ」
クレイの目が爛々と光る。「証拠は?」
男は袋から小さな金属片を取り出した。買い取った土産だと言う。指先に残る断片は、以前彼らが街で見つけた金の壺の破片と、模様がつながる。仮面の意匠、えん曲した金線。二つが合えば、全体像に近づく。だがまだ確証とは言えない。男の言葉だけでは、国王の儀式の全容は描けない。
「それでほぼ確定、か?」シオンが訊ねる。問いは稽古場を巡り、全員の顔が硬くなる。誰もが思い知っていた。宮廷に足を踏み入れることは、孤児たちを直に危険に晒すことだ。だが放っておけば、王は相変わらず笑いを奪い続ける。奪われた笑いは王の若さとなり、街には欠落が広がっていく。
「確定には、宮廷内部の文書か、壺の置かれている部屋を見なければならない」レムは書く。彼の指の線は一本、揺れた。言葉を書き終える度に、身体の奥で何かが疼く。声を失った代償が、彼の胸にひびく。失った笑い声は戻らないのか。だが今は、彼が声を取り戻す方法よりも先に、真実を暴かなければならない。
「どうする?」ヨナが聞く。怒りが和らぎ、冷静さが戻りつつある。稽古場での生活を守るためにも、決断が必要だ。
「宮廷に入る」レムは即答する。彼はもう一度チョークを握り、短い指示を並べた。「演者として。変装。無理をしない。子どもを最優先。」
その言葉に、反論が湧く。トールは腕を組み、シオンは唇を噛む。クレイは不敵に笑い、しかし目は緊張していた。入れば確実に足がつく。孤児である自分たちの存在は、相手にとって好都合の脅威になる。だがレムの目には、他の選択肢が見えなかった。奪うのではなく、語りを変える――それが彼の目指す方法だった。
「壺を壊すんじゃない」彼は黒板にそれを書き足す。「壺の使い方を変える。儀式を公開の場にする。語りを返す。壺が笑いを貯めるなら、その笑いを返す条件は“自発的な語り”だと見せればいい。」
その言葉に、部屋が静まる。語りを返す――それは野心的で、危険で、人を信じる行為が不可欠だ。だが壺を壊せば、その記憶の交換の仕組みや証拠も破壊され、取り戻すべきものが消えるかもしれない。壊すことは決して答えではないと、レムは確信していた。無理強いで笑いを作れば、自分はまた代償を払う。今一度、笑い声を失う危険は取りたくない。彼は既に失った声と共に、失ったものの一部を抱えていた。取り戻すための代償が、また誰かの痛みを上書きすることは許されない。
「儀式を見られたのか?」シオンがつぶやく。「見て、何を思った、あの男は?」
男は肩を震わせ、言葉を選びながら答えた。「彼らは言った。痛みは持ち続けなくてもいい、と。代わりに、空白が置かれる。だが空白は小さくない。人は自分が何を失ったか、気づかない。気づかないうちに笑いが減って、街はどんどん軽くなっていく。軽さは若さに見える。王はそれを飲むように笑顔で受け取っていた」
クレイが吐くように笑った。「ならば奴らの中に裏が立つな。笑いを飲むってことは、壺を満たしている奴がいる。貯めるだけじゃない、使っている」
「記憶の改