絵描き 第6話「第5章」
「ここから先だ。石段を二つ、右に曲がってから──」 ナオは壁に寄りかかりながら、息を整えた。背中に冷たい潮風が当たり、塗料の匂いと古い木の匂いが混じり合っている。目の前には抜け落ちた古い通路が口を開け、向こう側に小さな広場の瓦礫が見えた。救いたい人影はそこにいると聞いている。今すぐ道をつなげなければ、夜が来る前に誰も抜け出せない。
「ここから先だ。石段を二つ、右に曲がってから──」
ナオは壁に寄りかかりながら、息を整えた。背中に冷たい潮風が当たり、塗料の匂いと古い木の匂いが混じり合っている。目の前には抜け落ちた古い通路が口を開け、向こう側に小さな広場の瓦礫が見えた。救いたい人影はそこにいると聞いている。今すぐ道をつなげなければ、夜が来る前に誰も抜け出せない。
「ナオ、本当に行けるのか?」とリオが訊いた。看板屋の旧友で、太い指先にいつもインクが染みついている。目が疲れている。彼らの後ろには、行商人のミラ、年配の石工イヨル、そしてさっき救助の合図を送ってきた老女ソフィアがいた。ソフィアは震える手で自分の袖を握り締め、顔だけは必死に前を見ている。ナオは彼女を守るように身体を少し前へ出した。
「条件は分かってる。俺が歩いたところだけ描ける。複数で同じ絵を信じないと、道は通れない。想像で埋めたら──」ナオは言葉を飲み込み、目を伏せた。想像で埋めたら、描いた人の記憶が抜かれる。あの痛みを、まだ忘れてはいない。仲間の一人が目を閉じ、あの痛みの一端を示したときの沈黙が胸の奥に残っている。
リオは肩をすくめて、しかし笑おうともしなかった。「俺たちは三人で歩いた。イヨルは橋の手前まで行ったし、ミラは倉の角まで行ってる。合わせれば寸断された通路を繋げられるはずだ。信じてみようぜ。」
「もし、途切れたら──」ミラの声が細くなった。彼女は自分の子を思い浮かべるように小さく顎を上げた。救うべき人々の顔が、その瞳に浮かぶ。ナオもまた、灯りを頼りに瓦礫の向こうで小さく手を振る子どもの顔を思い描いた。彼らは本当に忘れられない。
歩いたところしか描けないという制約は厳しい。だがそれは、逆に言えば正確だ。足で踏んだ実感だけが道になる。だからナオはこれまで、仲間それぞれが自分の足で刻んだ痕跡を繋ぎ合わせる方法で道を伸ばしてきた。だが今日の隙間は広い。古い橋が崩れ、数十歩の空白がある。誰かがその空白を埋める必要があった。
「お前がその空白を想像で埋めるつもりか?」イヨルが低く言った。石工の声にはいつも冷静さが漂う。だがその瞳は揺れていた。ナオは首を振った。「いや。俺は歩いてない。想像で描いたりしない。だけど──」
だが、ここで時間が止まるわけにはいかなかった。空は低く、潮の匂いが強くなっている。救われる人が一刻を争うなら、彼らは賭けに出るしかない。案はこうだ。リオとイヨルとミラがそれぞれ歩いた痕跡を広げて、その接合部をソフィアが自分の記憶で埋める。ソフィアはこの街で生まれ育ったと言った。子どもの頃の路地、青い扉の並ぶ通りの記憶を持っている。ソフィアの言葉は震えていたが、確かなものに聞こえた。
「私が信じる。あなたたちと一緒に信じるわ」ソフィアは小さく頷いた。彼女の手は震え、唇は真剣に結ばれていた。ナオはその手を見つめ、心の中に冷たい不安が走る。想像で描くと記憶が吸われる──その代償は、今誰かが払うことになるのか。
儀式は簡単に見えた。ナオが板切れに下書きを置く。彼は自分が実際に歩いた路地の端を示し、リオが自分の踏んだ印を示す。イヨルは掌で床の感触を伝え、ミラは倉の角の匂いを口にする。ソフィアは、青い扉の色、扉の取っ手の形、幼い頃に追いかけた猫の舌触りまで言葉で紡いだ。彼女の話は細く、淡い光景を思い起こさせる。ナオは絵筆を取る。条件は守るつもりだった。ただ、一箇所だけ、どうしても足りない部分があった。ソフィアが「私の通った橋のこと」を思い出そうとするが、その橋は崩れていた。記憶の欠落が、その断絶を生んでいるように見えた。
「そこを繋げてくれれば、母さんも、あの子も──」ソフィアの言葉が途切れた。彼女が最も大切にしている記憶を口にしていたのだ。ナオは筆を動かした。だが彼はその部分を、実際には歩いていない場所へと伸ばすように描かなければならなかった。足跡はない。空白だ。全員で信じることによって、通れるはずだと彼は考えた。信じる力を分散すれば、個人への代償は軽くなるかもしれない──それが彼の最初の誤算だった。
筆先が壁をなぞる。青の薄い色が下地に溶け込む。リオが声を合わせる。イヨルが呼吸を合わせる。ミラが口ずさむ。ソフィアはその中心で、はっきりとした声で橋の形と匂いを言葉にした。一瞬、絵の縁に淡い光が走った。空白が埋まる感触。ナオは胸が熱くなったのを感じた。絵の輪郭が整い、そこが道のように見えたとき、ソフィアは急に手を引っ込めた。
「なんだか、頭がふわふわする……私、子どもの頃の母の顔が、ええと、消えたみたい」ソフィアの声に、微かな動揺が混じる。彼女は手でこめかみを押さえ、自分の見えないところを探すように視線を泳がせる。「母の髪の匂い……それが、さっきまであったはずなのに」
ナオの胸に冷たい金属が打ち込まれたように硬く響いた。「やばい、引いた?」リオが囁いた。ナオは即座に筆を止める。だが時遅し。壁に描かれた路は、通行可能な光を帯びる前に、微かに震えているように見えた。そしてそこで、絵の端が切れてしまった。ちょうどソフィアの言葉が曖昧になった瞬間だった。
「道が──途切れた!」ミラが叫ぶ。彼女は壁に指を走らせると、描かれた線が途中で消えているのを確かめた。そこには、濡れた布でこすったような跡が残っているだけだった。ナオは全身から力が抜け、膝をつきそうになる。救助を待つ時間は消えた。瓦礫の向こうにいる誰かは、今そこに取り残されているかもしれない。
それより恐ろしいのは、ソフィアの表情だ。彼女は自分の手を見つめ、そこにあるはずの皺と痛みを認めることができないかのようにぼんやりとしている。ナオは彼女の顔を覗き込み、問いかけた。「母の顔は? 名前を知ってるか?」
ソフィアはしばらく考え込む。瞳に小さな迷子のような光が宿り、ふと微笑もうとしたが、笑い方を忘れたらしい。唇が震える。「名前……名前は……」言葉が出ない。何度か試して、彼女はやっとひとつの音節を漏らしたが、それも確かではない。記憶は粒子のように指から零れ落ち、見えない川になって壁の中へ吸い込まれていったように思えた。ナオはその川の底に自分の手が届くのを見たような気がして、体が凍った。
「想像で描くと、描いた人の記憶が道に吸われる」——あの規則が、現実に牙をむいた。ソフィアは自分の幼い日の母の記憶を差し出してしまった。だが最悪なのは、その供出が道の成立を保証しなかったことだ。彼女は記憶を奪われ、路は途切れた。ナオは震える手で自分の胸を叩いた。自分の筆が、誰かの大切なものを吸い取る手伝いをしたかもしれない。
「ごめん……ごめん、ソフィア」ナオは言葉を吐き出した。謝罪は空気だけを震わせる。ソフィアは顔をゆがめ、胸を抱いた。「痛くはないの。ただ、空っぽなのよ。昨日あったことが一部抜けているみたいに──ああ、私はただ、今ここにいることが不確かで……」
リオが拳を握りしめる。「俺たちの判断ミスだ。ソフィアに無理をさせた。ナオ、お前は──」
「俺が筆を動かした。だが俺はその部分を歩いてない。想像の補助を頼むべきじゃなかった」ナオの声は震えていた。責めることは簡単だ。だが彼の心はそれ以上の