絵描き

絵描き 第3話「第2章」

風に擦れた紙の端が、ナオの指先で小さく震えた。路地の石畳は割れ、蔦が縫うように這い、彼らの足跡はたちまち砂に消えかけている。ナオはスケッチブックを胸に抱え、前に居る老女の顔を見た。老女は薄く笑っていたが、その目はどこか遠くを探していた。

風に擦れた紙の端が、ナオの指先で小さく震えた。路地の石畳は割れ、蔦が縫うように這い、彼らの足跡はたちまち砂に消えかけている。ナオはスケッチブックを胸に抱え、前に居る老女の顔を見た。老女は薄く笑っていたが、その目はどこか遠くを探していた。

「そこに、あの倉の裏から抜ける道があるはずなんじゃがのう」老女はぽつりと言った。声は紙が破れるように薄かった。寒さではない。そこにあるはずの何かが、どうしても取り戻せないと言うような響きだった。

ナオは息を吸って、落ち着いた声で言った。「一度だけ試してみる。お前さんと一緒に歩いたところだけを、俺は絵にする。それで──」言葉を切って彼は自分の手元のスケッチブックを指した。「みんなでその絵を信じれば、通れるはずだ。前と同じやり方だよ」

傍らにいるルクが小さくうなずく。ルクはまだ幼く、ナオにとっては救うと約束した存在だ。彼の目はまっすぐで、信じることの重さを測るには若すぎるが、同じ信仰に立とうとする意思を持っていた。街角に立つ看板職人の友、サルヴァは腕を組んでいた。彼もまた歩いた痕跡を共有できる者の一人だ。三人が並ぶと、ナオは少しだけ安心した。絵を一人で信じても必ず途切れる──その規則は、彼らの間で不文律のように受け継がれていた。

ナオはスケッチブックを開き、目の前の狭い路地を描き始めた。鉛筆の先が石の亀裂を撫で、屋根の瓦の乱れをなぞる。線は彼が実際に踏んだ足跡と同期する。描けるのは実際に歩いた場所だけ。彼はその規則をいつも胸に置いていた。だが、彼らの行きたい場所はその先にある。崩れた橋、瓦礫、そして海に沈む前の旧市街へ通じるはずの古い廊下。そこへは、今の彼らの足では届かない。だからナオは、ほんの一線だけ、想像の力を使って先を描き足す誘惑にかられていた。

「ここまでなら、三人で信じれば持つ」とサルヴァが言った。「だが、その先を勝手に描くのは──」

「やめるべきだ」ルクの声が割り込んだ。幼い声の中に硬さがある。ナオはルクの手を見つめ、そしてスケッチブックの余白へ向き直った。彼の手は鉛筆を握りしめたまま、止まった。

思考は刃のようだった。もし想像だけで描けば、短縮できる道は延びる。だが代償は記憶だ。自分の記憶が吸われるのか、それとも描いた者以外の誰かの過去が消えるのか、規則は曖昧だった。先日、彼らは小さな成功を手に入れた。だが成功の裏で、何かが薄れていく冷たさをナオは感じていた。それは自分のものではないかもしれない。もし他人の喪失を招くなら、許されない。

「一つだけ確かめたい」ナオは言った。「短くなら、ここから倉の門まで道を繋げられるか。三人で信じる。もし壊れたら、俺が責任を取る」

老女は細い指で胸元の布を握りしめた。「名は──名は忘れとるが、あの戸口には、子の歌が掛かっとった。子の歌──」言葉が震え、老女の顔から色が薄れる。ナオはその瞬間に胸が締め付けられるのを感じた。老女の手の震えを、彼は見逃さなかった。

彼らは歩いた。路地を一緒に往復する。実際に踏んだ石の感触を確かめ、錆びたある門の前で立ち止まる。ナオは膝まずき、スケッチブックを膝に置くと、描きはじめた。線は正確だった。瓦、扉の鎖、古い鍵の輪郭。ただし、彼の目はその先へと吸い寄せられる。そこにない廊下の続き。彼は一瞬、考えを消して、先を描いた。ほんの、二、三線ほど。

描き終え、ナオは手を止めた。鉛筆を空中で下ろすと、冷たい空気が一斉に流れ込んだような感覚が彼の胸を通り抜けた。老女が目を閉じ、指先で唇を抑えた。

「何か、消えたか?」サルヴァが問いかける。声には警戒が含まれていた。

老女はゆっくりと首を振った。「歌の一節がのう──あれ、どうじゃったかのう……」彼女の顔から泥のように言葉が溶け落ちる。唇の端にあったはずの母の名、子の名、古い日記の断片。消えたのは具体的なものだった。老女はそれを必死で掻き集めようとしたが、掌の中は空っぽだった。

ナオの胸が掻きむしられるように痛んだ。想像で描いたとたんに、描いた者の記憶が道に吸われる──という規則は知っていた。しかしそれは、描く者自身の記憶だけではない可能性を示していた。彼が描いた線が、老女の過去を手繰り寄せて、それをどこかへ持って行ってしまったのだ。彼は自分の無自覚さを呪った。

「ごめん……ごめん、待っててくれ」ナオは老女に向かって膝をついた。彼女の涙が一粒、唇の端を濡らす。ルクが肩を震わせた。サルヴァは黙って拳を握りしめた。

「どうして、どうしてこんなことに……」老女の声はもう幼く、唇が名を思い出そうと震える。彼女が思い出せない一節は、ただの歌ではなく、彼女自身の過去を繋ぐ糸だった。ナオはその糸がどこかへ抜かれていくのを、手に触れて確認することはできないが、心の奥で確かに感じていた。

ナオは立ち上がると、スケッチブックの白いページを見た。想像で描くことは禁忌であり、代償は記憶だ。だが彼らは救う必要がある。思考の果実を放棄するわけにはいかなかった。彼はふと、自分の生業を思い出す。看板絵師として、彼は人々の言葉や物語を一枚の看板に凝縮してきた。言葉は形になれば、誰かの内側から取り出すことができる。もし記憶を外に出せれば、それは吸い取られる対象ではなくなるのではないか──

「短歌を使おう」ナオの声は唐突だった。

「短歌?」ルクが首を傾げる。

「歌だ、節だ。簡潔に、その場所の核となる記憶を言葉にしてもらう。お前さんの声で。それを書き留めて絵の縁に入れるんだ。言葉が外にあれば、内側から持っていかれるものは減るかもしれない」ナオは説明にならない説明を続けた。「そして、俺たち三人でその歌を声に出す。複数の信仰があれば、一人で信じるときに起こる空白も防げるはずだ」

サルヴァが眉をひそめる。「だが本当に効くのか。ルールを曲げているだけじゃないのか?」

「試すしかない」ナオは言い、老女の方へ歩み寄った。老女の手の震えが少し収まったように見えた。その顔に、名残のしわが深く刻まれている。ナオは優しく手を取ると、低い声で促した。「思い出せる短い一節でいい。あの門の近くで誰かが歌っていた、というなら、その情景を五・七・五・七・七の形で。短く、核に触れる言葉を」

老女はしばらく黙り、目を閉じた。記憶は薄れているが、残滓がまだくすぶっている。ゆっくりと、彼女は口を開いた。

「古き戸に 春の風通う 子の唄よ 塩の匂いと 袖の縁」

言葉はぎこちないが、清らかさを帯びていた。ルクがその一行を繰り返すと、どこかで小さな風が吹いた気がした。ナオは素早くスケッチブックの余白に、その短歌を書き込む。墨の代わりに、彼は炭で文字をなぞった。文字があることで、言葉は紙の上に定着する。紙の中に入った言葉は、誰かの胸の中の曖昧な影ではない。物理的な物になった。

「三人で歌う」ナオは言った。ルクが、老女が、そしてサルヴァも小さくうなずいた。三人が息を合わせてその短歌を声に出す。声は薄暗い路地に反射して、壁の間を往復する。誰かの記憶を奪った虚無を埋めるように。

それからナオは、試した。目の前の線の続きに、慎重に想像の一線を加えた。だが今度は違った。彼らはただ単に描くの