絵描き

絵描き 第22話「第20章」

夜の残り火が広場の石畳を赤く縁取り、祭りの余韻が空気に粘りついていた。彩色の糊と紙屑、まだ乾かない絵具の匂い。ナオは両手を袖の中に突っ込み、壊れた壁画の前に立っていた。大きな黒い穴が、午前中まで人々の声を集めていた光景を喰っていた。そこには、子どもの手が絵の端から伸びていたはずだった。指先だけが残り、残像のように揺れている。

夜の残り火が広場の石畳を赤く縁取り、祭りの余韻が空気に粘りついていた。彩色の糊と紙屑、まだ乾かない絵具の匂い。ナオは両手を袖の中に突っ込み、壊れた壁画の前に立っていた。大きな黒い穴が、午前中まで人々の声を集めていた光景を喰っていた。そこには、子どもの手が絵の端から伸びていたはずだった。指先だけが残り、残像のように揺れている。

「どうして…」と、エッタが吐き捨てるように言った。行商人の手元には、紙に描いた路線図が何枚も重なっている。手の震えが隠せない。祭りの最中に何が起きたのかを説明する言葉はすでに意味を失っていた。人々が一斉に歌い、描き、共同の信念で道を作り出したそのとき、混乱が起き、ある一枚の壁画が踏みつけられ、燃やされ、消えた――それだけだ。

「密命だ」とリーアンが低く言った。看板屋の旧友は、祭りで配られたチラシの端に貼られていた不穏な印を指差す。ナオはちらりとその印を見た。見覚えがあった。観察者の目を誘導し、群衆の注意を一点に集める。そこが崩れた瞬間、他所で起きていることに気づかれないようにするための仕掛けだった。

「誰が?」と子どもが聞いた。ナオの隣にいた小さなアマはまだ手に小さな筆を握っている。祭りのとき、アマは何度も大声で子ども歌を歌い、絵の端に自分の掌を押し当てた。彼女の瞳は、まだ信じた後の余熱を帯びている。

ナオは青い扉を見た。扉は広場の片隅、小さな裏路地入口にある。祭りの光の中では目立たなかったが、いまは誰かが扉の前に立ち止まっている。扉の表面は厚く塗りつぶされ、青が塗られた層を示していた。あの扉はいつも、旧市街の痕跡を抑えるものを示していた。今はさらに、そこに触れられたくないものがあると告げていた。

「直せばいいんだろう?」と、隣で声を上げたのはマラだった。歌い手の彼女は、祭りの熱狂を押し広げた張本人でもある。破壊された壁画を前にして、怒りが顔に出ていた。彼女の手の甲には、赤い絵具の染みが残り、指先には昨日の歌の湿りがある。

ナオは首を振った。「直す、っていう方法はある。でもそれは、絵がまたひとつの対象として現れるだけだ。消されたものを単に元に戻すことは、同じ争いを再生するだけだ。向こうはまた、壊しに来る。」

「じゃあどうするんだ?」エッタが吐き捨てるように言う。彼女は既に、失われた絵に子供たちが寄せた手の痕跡を片端から集め、個々の言葉を記録していた。紙片の端には、アマの歌の一節、年老いたロヴァの道案内、消防団の女将の嗚咽が書かれている。

「消されたことを含めて、動かすんだ」ナオは声を落とした。言葉は簡潔だったが、その意味は深かった。誰もいない場所に向かって言葉が届くように、彼は一つの構想を組み立て始める。「記憶の搬送――消えたこと自体を物語にする方法。壁画を一か所に固めず、複数の断片に分けて、市中に散らして移動させる。消されても、別のところで誰かがその断片を抱えている。消滅ではなく『移動』にするんだ。」

「移動?」リーアンが眉を寄せる。「絵は歩かない。お前のそれは、歩いた道しか描けないんだろう?」

「そうだ」ナオは答えた。「だからこそ、ひとつの場所に固めておくと、向こうはそれを狙えば一度の攻撃で全てを奪える。僕らは、たくさんの人が実際に歩いて、その歩いた足跡と重なる絵を各所に残す。各断片は小さく、個人の記憶を完全には差し出さないように分ける。誰かが一枚を消しても、他の場所で同じ記憶の欠片が生きている。消えるのではなく、流れていく。」

「でも、描くということ自体が代償を伴う」マラが言った。夜風がマントの縁を鳴らす。彼女の眼は真剣だ。「お前の能力、想像だけで描くと記憶が吸われる。分割したところで、描く人のどこかが抜け落ちる危険がある。誰がその危険を負うんだ?」

ナオは拳を握る。手の中にはまだ、今日使った小さな筆がある。筆先には薄い青の色が付着していて、指の間に冷たく乾いている感触があった。彼の顔に影が落ちる。確かに、想像で描けば記憶が吸われる。独りで信じる絵は必ず途切れる。彼の力は不完全で、個人に負わせると痛みを生む。

「だから、ひとりに負わせない。共同で分けるんだ。歩く人、語る人、描く人を分けて、それぞれが自分の一部だけを差し出す。描くときには必ず複数が同じ絵を信じる儀礼を作る。記憶が直接吸われるのではなく、語られた言葉が紙の中に繋がるようにする。絵は通路を作るが、その通路の中に記憶の断片が渡されていく。消滅ではない、搬送だ。」

「で、祭りのあの瞬間はどうなっていた?」とリーアン。彼は拳で石畳を叩き、祭りの混乱を思い起こす。ナオは少し黙って、火の灯の残像を追うように目を閉じた。

「誰かが集団の注意を逸らした。演目の中で突然、子どもが泣いた。群衆がそちらに注目した瞬間、複数の者が壁画に耐えられないほどの暴力的な行為をした。燃やす者、踏みつける者、引き裂く者。彼らの多くは、普段は静かな顔をしている。煽ったのは、外部から来た者だ。ミレイアの術者か、その依頼を受けた者たちだろう。『過去は害悪だ』とする論理を、混乱に乗じて具現化したんだ。」

エッタの目に涙が光った。「あの手を、子どもの手の形を、皆で押して――あれが、私たちの共同の印だったのに。誰が消したかなんてもう、誰もわからない。壁画の破片が空に舞って、そこに何が書かれていたかを確かめる暇すらなかった。」

「だから、僕たちは方法を変えるんだ」ナオは言い切った。「壁画を一枚の祭壇にするんじゃない。街路、井戸端、屋根の下、飲み屋の壁、行商の箱――人々が日常的に通る歩行線上に、小さな断片を置く。各断片は、実際にその場所を歩いた人の歩跡に紐づいている。歩いた人が語ることで、その断片は『信じる共同』に入る。そして断片同士が応答する。片方が消されても、もう片方が応答すれば、通路は途切れない。」

「でも、みんなを説得できるか?」マラが問うた。「さっきの祭りで、煽られたのは私たちも同じだ。人々の恐れや、忘れて楽に生きたいという欲求を前にして、共同を維持するのは難しい。消されたあとの空白は、誰かが埋めたがる。ミレイア側はそこに自分たちの物語を差し込む。」

「だから、消されたことを外に晒すんだ」ナオの声は更に小さく、だが確固たる。彼は青い扉を見た。また、あの青い扉の向こう側にある抑圧の影を思った。「消されたことを恥じる必要はない、と示す。われわれは失ったものを恥じず、むしろそれを出発点にする。誰かが何かを奪えば、私たちはそれを包むように回収し、移動させる。消したことを正当化する理由を、街全体で問い直すようにするんだ。」

一瞬の沈黙が降りる。人々の後ろで、旧市街側の通り時計が二度鳴った。祭りの残り香に混じって、問いと怒りが波紋を作る。行商の箱の上に残された一枚の破れた紙が、ぎらりと月光を拾った。そこにはかつての路名が走り、子どもの手が指す先を示す矢印の断片だけが残っている。

「やるなら今だ」リーアンが言った。彼はいつの間にか集めていた木箱を開け、中から小さなランタンと短い杭を取り出す。ナオはその動作を見て、決断の背中を押された気がした。

「まずは小さく始める。燃やされた壁画の周辺、広場の四隅に小さな断片