絵描き

絵描き 第13話「第12章」

木枠の窓から夕陽が差し込み、広場に作られた仮設の庇は金色の影で縁取られていた。煙草の匂いと魚の干物を売る屋台の匂いが混じった空気の中、ナオは手のひらで紙切れを擦っていた。そこには、先刻まで人々が歩いていた回廊の図が走り書きにされている。自分の線の上に、他人が歩いた細い点線が重なっていた。

木枠の窓から夕陽が差し込み、広場に作られた仮設の庇は金色の影で縁取られていた。煙草の匂いと魚の干物を売る屋台の匂いが混じった空気の中、ナオは手のひらで紙切れを擦っていた。そこには、先刻まで人々が歩いていた回廊の図が走り書きにされている。自分の線の上に、他人が歩いた細い点線が重なっていた。

「今日は祝おう。ここまで来たんだ、ナオ」

隣に立つリッカが、いつものように軽い声でナオの肩を叩く。リッカは看板屋時代の古い友で、今は絵筆を持ってコミュニティの看板や路地の小さな壁画を描き続けている。彼女の手は土と絵具の匂いを放っていた。向こう端の回廊は、夜の灯りでぼんやりと光る。そこを通ってきた人影が、戻るときには誰かの抱きしめる顔を取り戻していたり、何かを思い出して泣いている。

「祝うのはいい。でも、祝うだけじゃ済まないこともある」

ミアが低く言った。彼女は治療をしている医師で、目に見えない傷を診る人だ。彼女の顔に浮かぶ疲労は、ここ数週間の救出と看護の重さを物語っていた。直立した木の椅子の傍らで、タルが硬貨を数えている。行商人のタルは、いつも先を読む人間だ。彼は表情を固めていた。

「何かあったのか?」

ナオが訊くと、ミアは紙を差し出した。そこには走り書きの短い文章がある。筆跡は震えていた。

「──アンナが、夫の顔を覚えていません。家の扉の色も、庭の鉢植えも、すべてが空白です。回廊の向こうへ行ってきたはずなのに、戻ってきてから名前が出ないと言います。何度も問いかけているのに、まるで空いたページのように……消えている」

ナオの胸が締めつけられた。アンナは近所でも評判の明るい女性で、年老いた夫を連れて回廊を渡った。帰ってきたとき、彼女の眼は遠くを見ていた。

「それは……」タルが唇を噛む。「回廊が安定してからも、全部が戻るわけじゃない。あの通路は通れるが、代償は一律じゃない。誰の記憶がどうなるかは、運だ」

「運って……」リッカの声が震えた。「そんなの、放っておけない」

ナオは思わず紙を引き寄せ、そこに書かれていることを反芻した。自分がやった線と、彼女たちが歩いた道の重なり。ルールは何度も頭で繰り返した。実際に歩いた場所だけを描ける。複数人が同じ絵を信じれば道は通じる。想像だけで描くと、描いた者の記憶が道に吸われる──そして、一人で信じる絵は必ず途切れる。

「ナオ、あなたが試したんでしょ?」ミアの視線はまっすぐだった。「あの夜、君が長い路を描こうとした、だって?」

その言葉に、ナオの腹が波打った。昨夜のことは、彼の胸の奥で鮮やかに疼いている。人が閉じ込められているという知らせを受け、彼は仲間の足跡だけで繋げられる短い回廊を組み合わせて、どうにかもっと遠くの家まで届かせようとした。時間がなかった。監視の目が近づいていた。彼は一人で筆を取り、足跡の無い空間に線を継いだ──ほんの短い部分、誰かの記憶を補うつもりで。

「やったよ」ナオは声を低くした。「少しだけ。届いて、救いはあった。でも、その後、戻った人の一人が──」

言葉がそこで詰まった。ナオは、あのとき自分の胸から抜け落ちた感覚を思い出した。絵を描いた瞬間、手の内で何かが引き抜かれるような痛みがあった。思い出すべき風景の一部が、紙の中へ流れ込むのを見た気がした。だが彼はそれを止められなかった。誰かの救いが目の前にあり、自分の小さな失いを交換する価値に見えたのだ。

「アンナの夫のことだよ」ナオが続けた。「彼女は回廊を渡った。私たちは一緒に歌を歌ったり、その夫の手を指で触って案内したんだ。戻ってきたとき、彼女は……彼の顔の輪郭を言えなかった。声なら思い出す。名前なら、分かる。でも顔が欠けている。口にしようとすると、抜け落ちる」

ミアの手が紙に触れて、指先が震えた。「その空白は、取り戻せるの?」

「俺には分からない」ナオは首を振った。「もしそれが、俺が描いたせいで生まれた空白なら、俺の描いた線が何かを引き取った可能性がある。想像で描いたとき、描いた人間の記憶が吸われる──だから、もし俺が想像で補った部分があるなら、その記憶はもう誰の中にもないかもしれない」

リッカが椅子から立ち上がる。顔を強張らせながら、彼女はナオの目を見る。「それは、やめるべきだった。誰かが――あなたが――一人で決めることじゃない。私たちが一緒に歩くべきだった」

「そうだ」タルが頷いた。「だがもう済んだことだ。我々は今、これをどう扱うか決めねばならない。空白を放っておけば、人は混乱する。忘れたことを恥じ、誰かを責める可能性だってある」

広場では、住民たちが小さな焚き火を囲んで話している。笑い声も混じるが、いくつかの顔が硬い。誰かが頭を抱え、何度も手を往復させては思い出そうとする。記憶の喪失は目に見えるわけではない。だが、その欠落があると同じ町で暮らす人間には空洞となって伝わる。食卓の端に開いた席のように、そこがあるだけで会話のリズムが崩れる。

「どうすればいいんだ?」小声で老人のアランが訊いた。彼は一度回廊を渡り、戻った者の一人だ。手の甲に青い線が乾いている。アランの目は潤んでいた。彼は首を絞めるようにしている。

ミアがゆっくりと椅子から立ち上がり、集まりを呼んだ。狭い広場に人々が集まり、ナオと仲間たちは輪の中心に座った。夜風が涼しく、波の向こう側からは遠く工房の鐘の音が聞こえてきた。

「聞いてほしい」ミアの声は静かだが、聞く者の心に直接届いた。「ここで起きていることを隠したり、軽く扱ってはいけない。失われた記憶に、名前をつけよう。記録を作る。誰が何を失い、どう感じているのかを――これは治療の一部でもある」

アランが喉を鳴らす。「それで、俺の妻の顔は戻るか?」

「まだわからない」ナオは答えた。「けれど、戻すのを一人の力に頼らないことは分かっている。想像で描けば、その記憶は描いた者に吸われる。俺がしたなら、俺の中の何かが失われている。同じことを誰も繰り返してはいけない」

「具体的にどうする? 記録って、ただ文字にするだけでいいのか?」リッカが訊く。絵を描く者としての直感から、彼女は言葉だけでは充分でないと感じていた。

ナオは図を差し出した。そこには回廊の網目と、小さな四角で示された家々がある。いくつかの四角は塗りつぶされていた。空白の家もある。

「空白を埋めるのは、記憶じゃないかもしれない」ナオが言う。「物や場所の情報、匂いや歌。人が思い出せない顔の代わりに、彼らが一緒にいたときに歌った歌、使った言葉、庭にあった鉢植えの種類――そういう断片を集めて、複数の人で保つ。誰か一人が全てを失うことがないようにするんだ」

小さなざわめきが起きる。誰かが口を噤み、誰かがうなずく。案は荒削りだが、彼らはその場で実験を始めるように思った。ある女が立ち上がり、震える声で自分の知るアンナの夫の話を始める。庭の鉢植えは赤い花の付くものだった、と。別の者が、彼の笑い方を真似した。誰かが台所の味噌の香りを口にし、別の者が戸の色を歌に乗せた。

その夜、広場に小さな「記憶帖」がいくつか作られた。人々が交代で語り、歌い、匂いを再現するためにスパイスを持ち寄った。ミアは治療と