灰路の癒やし手と終着なき魔導列車 第10話「第九章」
列車の振動が、窓に映る景色の輪郭をゆっくりと引き伸ばしていく。アウル号の低いうなりは、まだ彼の胸の奥で共鳴していた。だがその音に混ざっていたはずの、もっと古い低い音——前世の断片は、いつの間にかふっと消えてしまっていた。
列車の振動が、窓に映る景色の輪郭をゆっくりと引き伸ばしていく。アウル号の低いうなりは、まだ彼の胸の奥で共鳴していた。だがその音に混ざっていたはずの、もっと古い低い音——前世の断片は、いつの間にかふっと消えてしまっていた。
ラウルは列車の座席に沈みながら、自分の手のひらをじっと見つめた。そこには、青白い線が微かに滲んでいるように見えた。彼が踏んだ路盤の履歴が、皮膚に浮かび上がるのを無意識に追っていたのだ。青線は指先から手首へと細く流れ、やがて肘の内側でふっと途切れた。そこに触れると、胸の奥がきりりと疼いた。橋を渡したときに移った痛みが、まだ残っている。
だがその痛みを測る以前に、彼は何かを探していた。言葉の形をした記憶。顔の輪郭。あの夜の鉄橋、冷たい床の感触、あの時抱えていた「取り返せなかった」もの──。手の中でその像を手繰ろうとするたび、白い穴がぱっくりと開いて、指先から画が零れ落ちる。風にすべてを吹き飛ばされるように、そこにあったはずの名前や顔が欠けていった。
「ラウル」エダの声が冷たく、しかし静かな抑制を含んで彼を呼んだ。彼女は客室の通路を歩きながら、無造作に鍔を払った手袋を外し、蒼黒の瞳で彼を見下ろす。傷だらけの顔にも、まだ機関士としての厳しさが残っていた。
「思い出が抜けたのか?」エダの声には非難ではなく、問いとしての重さがあった。ラウルは唇を噛んで首を振りたい衝動を抑えた。頷いたら全部を認めることになり、否定したら自分をごまかすことになる。答えはどちらでもない、でもその曖昧さが一番辛かった。
バルドが大きな手を彼の肩に置いた。獣人の手は温かく、粗野な励ましの意図がそこにあった。「お前は今、動かすための戦力だ。だけど、無理させていいわけじゃねえ。俺はそれで失うのはいやだ」彼の声は単純で、情の厚さが端的に伝わってくる。
ノノはいつものように床に耳をつける仕草をした。彼の目は少し遠くを見ていて、脈晶の残響を探すように眉が寄る。「脈晶が、橋の痛みをまだ抱えてるって。炉と反応してる」とノノは小さな声で言った。言葉には怖さが混じっていた。彼は地中の声を聞く者であり、その無邪気な口調の裏に、土の重さと悩みを感じさせた。
セラは窓際で目を伏せ、指先で細い首飾りを触っていた。彼女の指の動きはそれだけで何かを抑え込んでいるように見える。だが、瞳の端がラウルを見ているのを、彼は感じ取った。彼女の視線には同情と計算と、隠された罪が混ざっている。
「もう一度言う」エダは彼の前に屈み、視線を押し付けるようにして続けた。「前のことを忘れたからって、責任が消えるわけじゃない。あんたは炉と繋がった。列車が動く限り、その影響は続く」
ラウルは息をついた。言葉にする前に、彼の胸にどんな感触があるか確かめた。記憶を失ったことは、たしかに過去の重さを軽くしていた。しかし、その軽さは自分を救うための免罪符にはなり得ない。重荷が消えた代わりに、空いた穴に新しい選択を入れる必要があることは、彼自身がいちばん強く感じていた。
「責任は、消えてない」ラウルの声はかすれていたが、ゆっくりと確かめるように紡がれた。「だが、今の俺には——」言葉を切った。どんな結論を出すべきなのか、自分でもわからなかった。ただ一つだけ確かなのは、もう一人で全部を背負うつもりはないということだった。前世で抱えていた孤独な贖罪のイメージに縛られて、人を救えなかった過去を繰り返すつもりはない。
エダの目が冷たくなる。機関士として、人を運ぶ者としての責任感がある。彼女はかつて列車を兵器として扱った罪を背負い、その対価として自らを戒めていた。だからこそ、危険を感じれば即座に人を路面から降ろす。ラウルの曖昧な決意など信用できないのだ。
「じゃあ、どうする?」エダは短く訊く。問いは鋭かった。「運転席に戻るつもりか? それとも俺らが代わりにおろすか。どっちでも構わない。だが無理して動かすなら、次は制御を失うぞ」
バルドがすっと体を前に出る。「俺は運転席から下ろす。お前にそこで倒れられたら、乗ってる奴らがどうなるかわからねえ。安全第一、だって何度も言ってるだろ。お前がいなくなったら動けねえってのは違う。仲間には俺らがいる」
言葉は理路整然としていた。だがラウルの中で何かが疼いた。彼が願ったのは、列車をただ動かすことではなかった。目的地へ誰かを送り届けるという責任を放棄するつもりもなかった。だが、代償は明確にここに現れていた:治癒は彼の身体を削る。長距離の修復は記憶さえ奪う。彼には限界がある。
ラウルは深く息を吐いた。「俺は運転席を離れない。だが、運転だけをするつもりはない」彼は言葉を選んで続ける。「もう一度一人で全部を背負うんじゃなくて、役割を分ける。エダ、運転と炉の最終可動は任せる。ノノ、地中の声を頼む。バルド、乗客と物資の管理を。セラは…」彼はセラを見た。彼女は首飾りに触れてかすかな息を漏らした。
セラはゆっくりと顔を上げた。「私にはまだやるべきことがある。乗客たちと話す。彼らの行きたい場所を聞くの。嘘が混ざらないように。強制や脅しがあれば、私が直に止める」その声には躊躇があったが、それでも確かな意志がこもっていた。
エダはしばらく沈黙した。やがて小さく、しかし確実に頷いた。「それでいい。なら、私は列車の神経と歯車を守る。無茶はするな。今度は本当に無茶すんなよ、ラウル」
バルドは腕を組み、ぶっきらぼうに笑った。「じゃあ俺はお前の命綱だ。二度と無茶はさせねえ。だが、そこはお前が自分で決めろ。俺らは後ろで支える」
決意を分かち合うように、車内の空気が少し軽くなる。乗客もまた窓の外を見据え、各々が自分の言葉を温めている。炉にはまだ小さな青い火が残っているが、それはいつでも消えかねない不安定な炎だ。乗客の言葉が重なり合えば、炎は力を得る。だが嘘や強制が交じれば、いとも簡単に黒煙が混じる。
ノノがそっと立ち上がり、列車の床に手を当てた。彼の指先は微細な振動を追う。しばらくして彼は、驚いた声で言った。「杭だ。地下にある杭が、炉と弱く繋がってる。王家の…封印杭だって匂いがする。触れると、炉の鼓動と同期してる」
言葉が車内に落ちた。聴衆の表情が揺れる。セラの指が首飾りに触れて、かすかな色の変化があった。ラウルは青白い線が彼の腕を這い上がるのを感じ、肘のあたりで震えが走った。杭という言葉は、これまでどこか遠い噂話に思えたが、今は列車の下で実際に脈打っていた。
「王家の封印杭……」エダが吐き出す。彼女は目を細め、列車から煙突のように立ち上る空気の流れを見定める。彼女の経験は、ただ軍用列車を動かしただけでは育たない。危険の匂いを察する鼻がある。
「もし杭が炉と共鳴してるなら、長距離修復の代償として俺たちはもっと多くを失うかもしれない」バルドの声に、冷たい現実があった。ラウルは胸の奥がまた締め付けられるのを感じた。痛みはまだ体にある。だが今度は、忘却がそれを和らげるだけではない。杭の存在は、彼らがこれから進む道にもっと大きな代償を要求することを告げていた。
「杭の反応は弱い。だが確かにある」ノノは床に耳を当てたまま言った。「杭は地図にもない路