鞘の少年と、抜けない聖剣 第10話「第九章」
空気が震えた。砂煙が一瞬、微かな光を含んで渦を描き、橋の向こうから冷たい影が歩を進めてくる。ヴァルハは来た。彼の前に立つと、風が一度だけ止まり、季節の色が薄れるように視界の輪郭が硬くなった。黒革の外套の裾が地面を擦り、槍の柄はまるで世界の秩序を示す棒のように一直線に伸びていた。
空気が震えた。砂煙が一瞬、微かな光を含んで渦を描き、橋の向こうから冷たい影が歩を進めてくる。ヴァルハは来た。彼の前に立つと、風が一度だけ止まり、季節の色が薄れるように視界の輪郭が硬くなった。黒革の外套の裾が地面を擦り、槍の柄はまるで世界の秩序を示す棒のように一直線に伸びていた。
「よくここまで運んだな」とヴァルハの声は平坦で、橋を塞いだ者たちの心に氷を落とした。「しかし鞘は余分だ。剣だけが、完全な力を与える」
その言葉は念押しのように繰り返され、周囲の空気を薄く震わせる。彼が槍を掲げると、先端から淡い蒼の光が走った。聖具院の魔術が込められた武器。その光は、見ている者の胸の奥にある「正しさ」に問いを投げかける。聖剣と鞘の関係を国家のために規定する者が、現実にそれを破壊する道具を振るう。その矛盾が、ここにいる全員の肩を重くした。
リオネルは剣の柄に手をかけたまま、少し前へ出る。顔に赤い決意が浮かび、王命の重さと自分がこれまで抱いてきた畏れとがぶつかり合っている。ミナは巻物をぎゅっと握り締め、目に浮かんだ青が震えた。ガルドは大きく息を吐き、ただ足元の砂を睨みつけるようにして身体を低くする。ピピは小さく身を震わせ、その瞳にいつもの遊び心とは別の固さが宿っていた。サヤトは――少年の姿であるのに、腰の鞘の空白を確かめるように手を触れていた。胸の金色のひびが、ぶるりと細かく光る。
ヴァルハは少しだけ顔を歪め、冷えた笑みを作った。「鞘を守る者がいる限り、聖剣は不安定だ。私はそれを終わらせる。ここで鞘を砕けば、君たちの議論も終わる。勇者様、ここで抜け。王への忠誠を試す時だ」
リオネルの手がほんの僅かに震えた。抜けば炎が跳ね、抜かなければここにいる人々が危険になる――その二つの可能性が胸を引き裂く。だが、誰かの顔を見れば決断は揺れない。村人たちの先に並ぶ疲れと信頼。リオネルはゆっくりと剣を高く上げる。鋼が空を切る音。次の瞬間、ヴァルハが槍を押し出すように動いた。
槍は一直線に、鞘――サヤトの胸の位置を狙った。
威力は、剣よりも冷たく、破壊の意志が剣先より鋭かった。空気が裂け、砂が波を打つ。五人は一瞬、時間の厚みが増したように感じた。ピピが声をあげた。小さく、しかし真摯な叫びだった。
「やめて!」
その声は鞘自身の叫びのようでもあり、だが外からのものでもある。ヴァルハは薄く目を細め、槍の角度を変える。狙いは、サヤトだけでなく、鞘を守ることで出来上がった「仲間の結びつき」そのものへ向けられているように見えた。
ガルドが走った。巨漢の影が一気に距離を詰め、裸足の砂を蹴る音が橋の木板に痛いリズムを与える。彼は自分がかつて担っていた役割を思い出した。処刑人として命じられた押し付けられた正義。それを引きずる重みは今も彼の骨に残っているが、今は別の「盾」になっていた。彼が槍の行く手に入って、肩を出し、腕を伸ばした。
槍は直撃した。金属が肉を裂く音、鎧が叫ぶ音、そして――何かがはじける。槍先はガルドの盾を貫き、彼の右腕の付け根を走った。血が噴く。巨体が一瞬だけしなり、そして膝をついた。だが、その勢いはただ吸収されただけでは終わらない。槍の先はさらに一本の軸として伸び、そのままサヤトの方へ触れた。
サヤトの胸に、冷たい衝撃が走る。金色のひびが一瞬、鋭く光った。内部に溜まっていた痛みと記憶の欠片が、震えるように押し返される。彼は自分の名を呼ぶ声をどこかで探したが、見つからない。代わりに、五色の糸がひびに絡まる。ガルドの灰、リオネルの銀、ミナの青、ピピの微かな金粉。だがその混ざり方は乱暴で、完全には結ばれない。ひびは広がりかけ、三本目になる寸前で止まった。
止まったのは、ピピの意思だ。彼は一歩前に出て、両の前足で地を掻く。星の斑点が翳り、瞳が強く光った。彼は胸の中に溜まった小さな呪いのかけらを、知らずのうちにまた噛みしめているかのように見えた。サヤトはその動きを見て、すぐに制した。
「違う、ピピ! やめろ、そんなこと――」
サヤトの声は震え、少年の口から出るには乾いている。彼は知っている。ピピの力は一度きり、そこには対価がある。ピピが呪いを分解すれば、サヤトの内部に詰まった痛みが一瞬軽くなる。しかしその度に、小さな竜は何かを失う。翼の一部、空を駆ける力、あるいは声の一部。以前にもピピは呪いを啜り、翼に斑点を作した。だが今回の分解は、飛べなくなるほどの代償を含んでいると、サヤトは本能で悟った。
ピピは小さく前を向き、誰のためでもなく自分の目で決めると言わんばかりに見えた。小さな胸が上下し、星屑のような羽根が震える。彼は自分の中の光を集めるように、口を半開きにして星の欠片を吸い込んだ。吸い込まれたそれらは、空気の中で黒い煙のようにうねり、ピピの胃の奥で鳴く音がする。星の斑点は急速に広がり、羽の縁から一枚、また一枚と輝きが消え始めた。
「そんな――」サヤトの声は割れた。彼は必死で抵抗する。能力は他者に強制できない。サヤトはピピを守りたい。だがピピは自分の意思で動いたのだ。サヤトが拒否することは、ピピの選択を奪うことになる。
ピピの目に涙が溜まったようにも見えた。それは人のような表情だった。彼は言葉を持たないが、動きで伝えた。自分は小さいけれど、誰かの痛みを減らせるなら、それでいい――と。彼の身体が白い光を放ち、吸い込まれた呪いの粒子が、ピピの喉元で爆ぜるように砕けた。その衝撃が、彼の翼へ逆流する。
翼がしなり、羽ばたきの準備をしていた筋が音もなく緩む。最初は一枚、次に二枚と、光を含んだ羽の先が薄れていった。ピピは小さく飛び上がろうとして、ふらりと前のめりに落ちた。砂地に残る小さな影が、かつて空に開いていた輪郭を示している。彼は落ちる寸前でガルドの腕に抱かれた。ガルドは驚愕よりも前に、その小さな体を受け止めた。巨きな手が丁寧に、まるで子供を扱うかのようにピピを抱える。
「おい、おい、しっかりしろ小さいの」ガルドの声は低く、鱗のように荒ぶるがその手は震えている。ピピは小さく目を開け、まだ笑ったような表情を見せた。それで全てが説明できる、という顔だった。失うものを選んだ者の満足と、残る者の悲しみが混ざり合う。
その瞬間、サヤトの胸のひびがまた光った。だが今度は、ぱきりと割れるような恐ろしさではない。誰かの意志が、自分の中へ水を注ぐように優しく流れ込んだ。ピピが分解した呪いの残滓が、空中で白い糸のようになってサヤトの前に落ちる。そして、じわりと――痛みが薄れる。内部の記憶の欠片がすっと軽くなり、代わりに胸の重みの一部がガルドの心に移る。ガルドが静かに顔をしかめ、額に汗をかくのが見えた。彼は自分でそれを望んだのか。だがサヤトは知っている、ガルドはもう自分から痛みを分けることを躊躇しない者だ。だから彼の体に、ひびの光がほんの短く差した。
「代わりにはならん」とガルドは低く言った。「だが、連れは守る」
その言葉に、サヤトはほんの少しだけ息を吐く。断片的だった前世の匂いが、またふっと浮かんで来る。展示室の木の匂い、修復用の糊の甘い刺激、子どもの声。記憶は以前ほどはっきりしないが、誰かと交わす約束の感触だけ