未達便の星図士

未達便の星図士 第7話「第六章」

逆流する川は、見た者の常識を嘲るようにして流れていた。水面は鏡のように鈍く光り、川底の砂が上へと吸い上げられる。その流れの向きにあわせ、岸辺に立つ木々の小枝が逆向きに揺れ、空には潮の匂いが濃く立ちこめていた。いかにも異質な風景だったが、ここを渡らねば沈没都市へは近づけない。

逆流する川は、見た者の常識を嘲るようにして流れていた。水面は鏡のように鈍く光り、川底の砂が上へと吸い上げられる。その流れの向きにあわせ、岸辺に立つ木々の小枝が逆向きに揺れ、空には潮の匂いが濃く立ちこめていた。いかにも異質な風景だったが、ここを渡らねば沈没都市へは近づけない。

トワたちは川岸へと近づき、静かに手綱を握った。日の光は低く、砂の色を赤く染めている。ポストンは膝の上で丸まり、封蝋のかけらを舐めるようにして目を細めていた。ミナは膝の上の小箱を押し込み、指先で封印術の符を確かめる。ガルドは大柄な体を小さく丸め、息を整えながら川をにらみつける。リュネは潮位計の小さな円盤を抜き、翼の水膜で測った潮の差を紙に書き留めていた。三者三様の緊張が、その場にあった。

「これをどうにかして渡るんだよな」ガルドの声は低く、しかし驚くほど落ち着いていた。彼にとって川が逆流しているかどうかは、戦場での地形と同じく克服すべき障害に過ぎないらしかった。

ミナは無言で頷き、ゆっくりと手を広げた。彼女の掌に浮かぶのは、薄い赤い文字列だ。封印術は往々にして音と形を必要とする。その場の時間の流れを捻じ曲げ、水と風と記憶に命令を下す。ミナが紡ぐ言葉は、小箱の中で眠る古い便箋の記憶に触れるたび、押し寄せるように強さを増していった。

「前に言った通りだ。ここは……敵国側の流れに当たる。私は、そこに手紙を出した」

その一言で、三人は彼女の顔を見た。ミナの目は、薄く光る灰色だった。彼女はいつもの明るさを欠き、指先に力が入っていた。封印の線が微かに震える。トワは胸の奥がぎゅっと締まるのを感じた。ミナの過去は、彼らにとって断片的な噂でしかなかった。局を追われたという事実は知っていたが、具体的な罪が何であったかは分からないままだった。

「敵国に、個人的な便を出したんだ。戦時中に、だけど。送った相手は――一般の市民だった。情報でも、武器でもない。ただ、逃げ延びる術を教えてほしいと願った人に。私はそれを、封をして出した。局には言わなかった。あれを、私は……」

ミナの声が途切れる。紙を扱う者の声はいつだって細くなりやすい。トワはその沈黙を埋めるように少し身体を寄せ、彼女の手の甲に触れた。ほんの一瞬、皮膚に伝わる温度がミナの心を少し緩める。彼は過去の自分を思い出した。配達することに固執したがために、紙の奥にある個々の声を見過ごした朝倉透としての痛みを。ミナの告白は、その痛みと響き合う。

「結果は?」トワはできるだけ穏やかに訊いた。能力の使用はまだ避けるつもりだ。星路読解は、目の前の川を渡るには助けになるだろうが、その代償はあまりにも重い。仲間の記憶が彼の中で白く漂うことを、彼は何としても避けたかった。

ミナは息を吐いた。「救えたのは――一人だけだった。見つかったのは一人。私はそれで……十分だと思った。けれど、その一人が逃げた先で情報を持ち出した。その情報が戦力の流れを変え、結果として別の場所で犠牲を出した。私はそれを知ってから、夜も眠れなかった。局の誰にも言えなかった。言えば、私は罪に問われる。だが言わなければ、私は自分を許せない」

言葉の終わりに、ミナの指が震えた。小箱の蓋の金具がチリリと鳴る。リュネが紙片を一枚、差し出す。そこには彼女なりの測量結果が丁寧に書かれていた。赤いインクで示された点線が、川の逆流の周期を描く。小さな数字が刻まれ、その並びが示すのは「潮位の逆転の瞬間」と「川の脈の乱れ」だった。

「ここをどうしても止めるなら、封印を一時的に結ぶしかない」リュネは淡々と言った。彼女の声は水の音みたいに冷たく、だが確かなものだった。「でも、その間に私たちは固定された時間の中で移動しなければならない。潮が戻ると同時に、水は元に戻る。封印を解くということは、元の流れを受け入れるということだよ」

ミナは頷いた。「私の封印は永久的なものではない。一時的に流れを固定するだけ、それでも人が渡るには充分だ。だがそれは私の力を大きく使うということでもある。封印を張る間、私は動けない。もし誰かがここで襲われれば、私は――」

彼女は答えを濁した。皆の目がミナに集中する。ガルドは黙って拳を握り、トワはポストンの頭を撫でた。小さな毛玉は鼻をひくひくと動かし、赤い封蝋の匂いを求めるように顔をあげた。川と風と砂と、誰かの過去と未来が混ざり合う空気の中、決断の時が迫っていた。

「君が正直に言ってくれたことが重要だ、ミナ」ガルドが低く言った。「俺たちはお前を裁くためにここにいるんじゃない。お前の技術がいま必要なんだ」

その言葉は、トワの胸を温めた。ガルドは文字を読めないし、手紙の深い意味を文字通りに理解することはない。だが彼には、声を届けるという独自の方法がある。封筒を耳に当て、紙の擦れる微かな音を覚えることで、彼は手紙を「声」として再現してきた。今、彼はミナの過去の罪を審判する資格などもはや持たない。彼が持つのは、仲間の声となり、必要とされる場へ文字を運ぶという役割だった。

ミナの目に、涙がひとつ光る。「ありがとう。私が隠していたのは事実だ。だが、あの時の判断だけは、後悔していない。あの一通は、誰かを生かそうとした――それが間違いだったとしても、やらなければもっと多くの命が失われたかもしれない。私はそれとずっと向き合っている。だから、いまここで皆に言う。私を信じてほしいとは言わない。ただ――私も、この便を誰かのために使いたい」

声が震えた。トワは肩越しにヴァルクの影を探した。監察官の姿は見えないが、彼らが追われているという事実は変わらない。書類と秩序の元に、未達便を黙殺しようとする圧力が迫っている。ミナの告白は、追手が持つ正義と衝突する火種を露わにした。

「封印を張るなら、手順を決めよう」トワは静かに言った。彼は能力を使わずにここまで来た。星路読解は魅力的な救済の手段だが、彼は代償の重さを知っている。仲間と共に進むために、彼は星路に頼らずに道を確定する選択をしたのだ。「一人で封印をさせるのは止めよう。誰かは見張り、誰かは渡橋のための仮設を作る。リュネ、潮の測定は君に任せる。ガルドは声で渡り方を指示してくれ。ミナが封印を張る間、俺たちは守る」

リュネは短く頷き、紙を折り畳んだ。ガルドは不承不承ながらも刀を握り直した。ポストンがぴょんと跳ね、ミナの膝に顔を擦りつける。四つの相互依存が、そこに確かに生まれた。

ミナは深呼吸をし、封印の言葉を口に出した。音は喉の奥から出で、空気を通って符を描く。彼女の指先から赤い文字列が滑り出し、川の表面に触れていく。それはまるで川が上へと登るように見えた。赤い文字は水面に浮かび、波紋となって広がる。文字は古い言葉で「時を束ねる」と歌うように繋がり、川の流れの脈打ち方を一つの鎖にして縛り上げていく。

周囲の空気が歪み、風が逆方向に吹いた。川の表層は静かになり、逆流の轟音が徐々に弱まっていく。だがその瞬間、ミナの顔に苦痛の色が走る。封印は彼女の体力を奪った。赤い文字は彼女から引き出された力の残像であり、消耗を伴う。以前の罪の代償と、今ここでの救いの代償が交差するその場面は、見る者の胸を締めつけた。