未達便の星図士 第1話「序章」
雨は細く、だがしつこく降っていた。街灯から落ちる黄色い円は水面に輪郭を崩され、舗道に張られた水たまりはすべて鏡になって、そこへ自転車の車輪が引いた白い線を残していく。朝倉透はその白線の先を、いつも通りの速度で追っていた。夜勤明けの身体は重く、指先は冷たかった。だが彼の胸に抱えられた一通の封筒だけは、異様な熱を帯びていた。
雨は細く、だがしつこく降っていた。街灯から落ちる黄色い円は水面に輪郭を崩され、舗道に張られた水たまりはすべて鏡になって、そこへ自転車の車輪が引いた白い線を残していく。朝倉透はその白線の先を、いつも通りの速度で追っていた。夜勤明けの身体は重く、指先は冷たかった。だが彼の胸に抱えられた一通の封筒だけは、異様な熱を帯びていた。
封筒の宛名は滲んでいる。インクが滲んだぶんだけ言葉が曖昧になり、差出人の意志が視界の端に揺れているようだった。透は配達員として何百通もの手紙を扱ってきた。配達不能票を貼るということは、ある種の合理だった。住所不明、転居、受取人不在。規則に従えば夜遅くに戻るべき家も、再配達の記録も増えず、効率は上がる。だが今夜の封筒は違った。濡れた角がわずかに震え、沈黙が紙の厚みに似合わない重さを生んでいた。
「ここで諦めたら、何も残らないよな」
自分でも驚くほど弱い声が出た。透はふと、配達不能票の束を貼る自分の手を思い出す。冷たく合理を選んだあの日々。誰かの苦情を避け、上司の数字を守り、目の前の温度を見ないふりをした自分。だが今、雨の中のこの封筒は違った。誰かが濡れた文字で必死に縋(すが)った一行がそこにある気がした。届けなければならない理由が、自分の胸の奥で騒ぎだす。
自転車のライトが一瞬、前方の車の水しぶきで消えかけた。商店街のネオンはぼやけ、深夜の交差点にはほかに人影がない。透はブレーキを少し強め、路面の滑りを確かめる。いつもならここで避難して配達不能票を貼る。だが今日は違った。彼は封筒を胸元に引き寄せ、雨に晒(さら)されるインクを守るようにハンドルを握り直した。
角を曲がったとき、前方から滑り込む車のヘッドライトが重なった。タイヤの悲鳴と水の飛沫が同時に耳を割る。反射で見えた運転手の顔は、驚きと怯えが同居していた。透の体は慣性で前へ押し出され、足元のペダルが軽くなる。彼は自転車を制御しようとしたが、濡れた路面は彼の意思を裏切る。ハンドルは切れ、車体は一度大きく浮いた。
――届けられなかった理由だけでも、伝えたい。
その一言が、胸の中で割れるように響いた。透は封筒を強く抱きしめ、視界の縁で滲む街灯を見上げた。雨粒が光の断片になり、数え切れないほどの小さな光点が彼の頭上で集まる。痛みはあったのか、静かになっていく鼓動の中で、世界は薄くなっていく。
時間がゆっくり戻るような感触だった。雨の音が遠ざかると同時に、どこか別の音が混ざってきた。風でもない、波でもない、誰かがページをめくるような音。目の前の封筒の縁から、細い光が漏れ始める。光は星のように鋭く、封蝋の隙間から一筋の線となって夜へ伸びていった。
「君の望みは、一通の未達便を届けることか?」
声は性別も年齢も感じさせない。皮膚に触れるわけでもなく、しかし確かに腑に落ちる。透は答えようとしたが、言葉は喉に残った。代わりに手の中の封筒が温かさを増し、光は封筒を中心に星座のように広がる。雨粒は鍵になって、光の点が線へ、線が地図のような網へと変わっていった。舗道の水面が消え、そこに小さな天図が映し出された。水のうねりが、陸地の輪郭に重なり、浅い溝から深い海が生まれる。ページの端の水滴が異世界の星図へと溶け込んでいった。
「届かなかった理由を伝える――それは、言葉を選ぶ者の最後の仕事だ」と、光は続けた。「ここを離れる代わりに、君に道を見せよう。ただし一つ、代償がある。触れた先の行き先は、差出人が最も強く願った『場所』として星の線となって現れる。だが君が得る視覚は場所だけだ。宛名も、内容も、誰の顔も示さない。そして、読むたびに――君の記憶から一つ、大切な『道』が失われる。地理だけでなく、人と人を結んだ道、帰る場所へ続く道、出会った瞬間の道までもだ」
透明な重みのある言葉。透はそれを理解するのに少し時間を要した。肉体はもう彼のものではないのかもしれない。だが胸の中の封筒は、まだしっかりと彼の手にあった。もしこれが契約なら、代償は大きかった。だが、今まで何度も諦めを選んだ自分はもう嫌だった。彼は目を閉じ、ひどく濡れた掌を強く握った。
「誰にでも届くわけではない。でも、届けられなかった理由を伝えたいという願いに手を貸す。それでよければ、君を連れよう。名を与え、役目を縫って新しい世界へ送る」
光はその言葉を告げると、封筒から伸びた一筋の線を透の胸へと導いた。透は胸が冷たくなるのを感じつつも、なぜか不思議な安堵に包まれた。自転車のハンドルの握りしめた感触、雨に濡れた襟元の冷たさ、路地の微かなタバコの匂い――それらが一つずつ淡くなっていく。代わりに、星の網が彼を抱擁するように光を増していった。
「名は――トワ。アステルという姓を与えよう。意味は、君自身の行く先で見つけるがいい」光の輪郭は郵便印のような柄を描き、封筒の上に小さな星の紋章が刻まれた。透はその紋章を見つめて、胸の奥から小さな声を出した。名前が、呼ばれることによって生まれる感覚が、彼の中で眠っていた何かを刺激した。
「一通だけ。未達便を一通。差出人の願いを一つの場所へ届けよ。封筒を開けることは許されぬ。触れる時、君は『星路』を読む。その際に記憶を一つ失う。それを承知するのか」
透はうなずいた。承知という語は、彼の前世で貼ってきた配達不能票と比べると心地よく響いた。諦めることを選んだ自分を、今度は選び直す。差し伸べられた希望を受け取ることで、自らが犯した無力さを覆したかった。
光が全てを飲み込む直前、封筒の表面が微かに震えた。そこに、雨で滲んだ文字に代わって新しい言葉が浮かんだ。小さな銀色の文字が宛名の代わりに一行だけ光り、その一行はどこか遠い故郷を指しているような響きを持っていた。透には意味が分からなかった。しかし胸の中で、言葉が針のように刺さり、確かな導きを与えた。
「配達先――君がまだ知らない故郷」
それは宣告のようでもあり、招待状のようでもあった。透はその言葉を胸に刻み込みながら、世界の隙間へと滑り落ちていく感覚に身を任せた。雨の匂い、路地のざわめき、車のライトの白熱が、まるで絵葉書を剥がすように一枚ずつ剥がれていった。最後に彼の手は封筒を離し、それは星の線に溶け込んだ。
気がつくと、肺が空気を吸っていた。胸の中が風で満たされ、視界には見慣れない木組みと、奇妙に大きな窓があった。薄い布越しに差し込む光は、夜の冷たさではなく、柔らかな黄と藍の混ざった色だった。彼の胸元に触れると、小さな固い物があった。目を向ければ、そこに封筒がある。だがそれは今、紙ではなく、革と糸で縫われた手帳のように彼の内側に収まっていた。
「おはよう、トワ・アステル。君は天環局の見習いだ」
誰かが優しく告げる。声の主は病室の看護師ではない。窓の外では、巨大な浮遊する灯台が遠くに見えた。たくさんの小さな光が、その周囲で回転し、まるで夜空を模したように配置されている。透、いやトワは手帳の縁に添えられた封蝋を見ると、先ほどの星の紋章がそこに押されているのを確かめた。
封筒は再び微かに振動した。今度は文字が内側にだけ見えた。だがその文字は、今の彼にとって意味を持っていた。読めるとい