干谷の水脈守り 第2話「第一章」
俺は、前世では水道局員・水城透だった。夜の配水管で最後まで音を聞き、崩落に巻き込まれて死んだ。あのとき、暗闇の奥から「流れを見捨てない者」と呼ぶ声がして、別の世界に生まれ直した。それから十二年。今の名はリオ。乾いた谷の底で、古い水路を守ってきた一族の末端として暮らしている。
俺は、前世では水道局員・水城透だった。夜の配水管で最後まで音を聞き、崩落に巻き込まれて死んだ。あのとき、暗闇の奥から「流れを見捨てない者」と呼ぶ声がして、別の世界に生まれ直した。それから十二年。今の名はリオ。乾いた谷の底で、古い水路を守ってきた一族の末端として暮らしている。
俺に与えられたものは、知識の全部ではない。石や石造りの壁に素手で触れたときにだけ、今この瞬間を走る水の流れが音となって、青白い線の像として見える感覚だ。どこが詰まり、どこが速く、どこで逆流しかけているか──それだけ。原因や人の意図、先のことは分からない。金属の摩耗も、歯車の噛み合わせも、音では読めない。そこは、父に叩き込まれた目視と手の勘で推理するしかない。そして、広く深く読もうとすると、俺の体から水が抜ける。喉が裂けるみたいに渇き、視界が白く濁り、ひどいときは倒れる。流れを直すのは、この手の音ではない。石を運び、歯車を鍛え、水門を回す人の汗だ──それが、俺が生きているこの世界の最初の約束だった。
その朝、鉄蓋の貯水槽の前に村人が集まった。玻璃谷の風は短く砂を運び、乾きを舌に載せて去っていく。乾いている、などと改めて言うまでもない。だが、その乾きは今、数字になって俺たちの胸に刺さっていた。
「残量は三日分を切った」村長が蓋に手を置いたまま言う。声は低いが、広場の石壁で跳ね返って大きく聞こえた。「夜の蒸発を見込むなら、実質二日半。配給を半分にしても、羊に回す水はない」
ざわつきが広がる。王都への嘆願だ、運輸組合に頼んで山越えの湧き水を買うか、と声が飛ぶ。誰かが「水を呼べる者はいないのか」と言い、別の誰かが俺を一度見て、すぐ逸らした。「水を呼べない守り手」というあだ名は、いつもの冷やかしで済めばいいが、今日は笑えない。
父の保守印が、掌で鈍い光を返した。銅の薄い円盤に刻まれた古い図形は、村の中でも意味を読める者が少ない。俺は息を吸った。
「見せてほしい。今、どこで細くなっているかだけなら分かる」自分でも驚くほど静かな声が出た。
「お前が?」年長の男が眉をひそめる。「お前の父親は確かに腕が良かったが、もういない。お前は水を呼べない」
「呼べないよ」俺は頷く。「でも、触れれば聞こえる。今の流れだけだ。原因や未来は分からない。分かるのは、今、どこが詰まり、どこが速いかだけ」
村長が俺と保守印を見比べ、短く息を吐いた。「やってみろ。ただし、無理はするな」
俺は貯水槽の側壁の亀裂に指を当てた。昼の陽を吸った石は温かく、指先の汗が一瞬で奪われる。次の瞬間、すべての物音が遠のき、かわりに細い歌が耳の奥でほどけた。いや、歌というより、形だ。石の下に張り巡らされた細い糸の束が、青白い線となって視界の裏側に立ち上がる。分岐は輪郭を持ち、主幹は一本の太い帯になってうねる。所々、線が濁り、黒い繊維の塊のような影が絡む。逆向きの力がかかっている箇所では、ひゅっと赤みを帯びた矢印が反転して走った。
「……ここから分かれて、左の流れが、細い」声が勝手に出た。「主幹はまだ太い。詰まっている可能性が高いのは、この節──継ぎ目の少し先だ」
「継ぎ目?」と誰かが聞く。
「石組みの節点だ。ここは、金属じゃないから音で読みやすい」俺は指を少しずらし、もう一度だけ短く読む。青白い線は震え、ふっと浅くなる。喉が焼けるように渇き、視界の端が白く滲んだ。まずい、深く潜りすぎる。
「リオ、そこまでだ」そばにいた女が俺の手首を取った。俺はうなずいて指を離す。世界が戻り、喉の奥で砂がこすれるような音がした。誰かが塩をつまんで渡してくれ、舌に載せると、体の内側に道が一本引かれるように少しだけ楽になった。
年寄りの職人が俺の背中越しに壁を見て言う。「分岐水門の先だな。だが、壊れてるのか、流量を絞ってるのか、今じゃわからねえ」
「そう。壊れてるかどうかは、目で見ないと分からない」俺は立ち上がって保守印を握りしめる。「金属の摩耗や歯車の具合は、音じゃ読めない。父に習ったやり方で確かめる。道具がいる。人手も」
村長は短く考え、うなずいた。「許可する。ただし一人では行くな。封鎖区画に触れるな。危険ならすぐに引き返せ。お前の体は替えがきかん」
「はい」俺は頭を下げた。息が浅い。だが、決めた。「俺は、水脈守りのリオだ。今の流れを見捨てない。だから、行く」
広場が少しざわめいた。誰かが鼻で笑い、誰かがうつむいた。けれど、父の古い仲間が小さく笑ったのを俺は見た。
午後、古い工具箱が開かれた。父が使っていた鍵、錆を落としたスパナ、麻のロープ。歯車を外すための楔。目で読み、手で試すための一式だ。俺は金属の歯の摩耗を目で測るための小さな定規を鞄に入れた。音じゃ分からない部分は、こうして確認するしかない。
「道具はよし。歯車の打ち直しが必要になるかもだ」と職人が言う。「鍛冶工房に顔を出せ。見習いの娘が手は速い」
俺はうなずいた。あの工房の熱と火花と、据えられた鉄床の匂いが頭に浮かぶ。父は生前、あの工房で水門の軸を研いでもらっていた。ナナ、という名の見習いがいる。彼女は俺を信じないだろう。けれど、歯車は待ってくれない。明朝、工房に行く。そう決めた。
夕暮れ、俺はもう一度、貯水槽の前に立った。村人がそれぞれの家に戻り、広場は空気の音だけになっていた。鉄の蓋の周りに残った数人が、空の腹をのぞき込むように黙って立っている。誰かが井戸の蓋を持ち上げ、乾いた石の匂いが夜の冷たさに混じった。
「本当に、三日なのかねえ」年配の女がこぼした。隣で子供が水袋を抱きしめる。俺は保守印を握り直し、亀裂の走る水路壁に掌を当てた。深く読むな、と自分に言い聞かせる。今夜は方角と分岐の決定だけ。原因は明日、目で見る。
石は冷たかった。音は細い。けれど、確かにある。青白い線が皮膚の内側で広がり、主幹から左の分岐へ向かう細い糸がかすかに震えた。詰まりの濁りは昼よりも濃い。上流の配分が滞っているのか、どこかで意図的に絞られているのか──それは分からない。ただ、今、細い。それだけは確かだった。
「……まだ、流れている」思わず口から漏れた。言葉にすると、なぜだか胸の中心が少し温かくなった。その温かさが、次の瞬間、足下の砂を震わせる。
ざり、と乾いた音。広場の外周の砂が、ごくわずかに沈む。誰かが息をのんだ。ランプの灯りが揺れ、影が踊る。俺は石に触れたまま、青白い線の奥底に、見覚えのない色を見た。銀色の点だ。そこだけ、流れではない何かが在るように、静かに光っている。
銀の点は、脈動した。青白い線がそこへ集まり、渦を巻き、薄い膜のように一枚、また一枚と折り重なって──楕円になった。まるで瞳の形。俺の足元の砂が、かすかに上下する。冷たい気配が皮膚の下を通り抜け、喉の渇きが一瞬だけ消えた。
「見たか……?」誰かの囁きが夜の縁で砕ける。
瞳は、ゆっくりと開いた。砂の下で、巨大な水の眼が、こちらを見上げるように。光を取り込み、広場の灯りを映し、谷の夜を映し、俺の掌の熱と、村の息づかいを映す。深くて、静かで、古い。前世の最後に聞いた声の、遠い残響が、胸の骨を震わせる。
まだ、流れている──誰かの、い