聖歌隊

聖歌隊 第6話「第5章」

朝の礼拝堂はいつもよりひんやりしていた。窓から差し込む光が木の床に斜めの帯を作り、子どもたちの足音や食器の擦れる音がそれに重なる。ハルはその音の連なりを聞き分けながら、今やりたいことを頭の中でくり返していた──歌を外に出さないこと。外へ、教会へ、誰かの手に渡さないこと。音を「守ること」が彼の今できる唯一の防衛だった。

朝の礼拝堂はいつもよりひんやりしていた。窓から差し込む光が木の床に斜めの帯を作り、子どもたちの足音や食器の擦れる音がそれに重なる。ハルはその音の連なりを聞き分けながら、今やりたいことを頭の中でくり返していた──歌を外に出さないこと。外へ、教会へ、誰かの手に渡さないこと。音を「守ること」が彼の今できる唯一の防衛だった。

「ハル、今日の検査、本当に断るつもりなの?」セルマの声は静かだが、厳しさが含まれていた。院長の指先はいつものように柔らかく、年季の入った譜面台に触れている。元歌姫と呼ばれた彼女の指は、今はもっぱら書類と、子どもたちの小さな手を支えることに使われている。

「断る。歌は見せ物じゃない。子どもたちの同意がないのに、外の連中に聞かせたりしない。」ハルは答えた。言葉は軽やかに出たが、胸の奥では抵抗の波が押し寄せている。もし拒否が裏目に出れば、孤児院は監査され、子どもたちは調査の対象にされる。だが歌を聴かせることは、これまでに出合った何よりも危険だ。彼は自分の能力の規則を、肌で、血で知っていた。

廊下で足音が止まり、木製の扉がゆっくり開く。外套を羽織った男が二人、制服ではなく教会色の深い緑をまとって立っていた。男の胸には小さな銀の十字が光る。来訪者の先には、礼拝堂から近くの市場へ出て行った商人たちの話を聞きつけたという知らせ──「同調徴収が始まる」と、今日の主題をふっつける言葉が続いた。

「ネロ大司教の使いだ。」セルマがささやいた。声の端に、過去の何かがざわつくのがわかる。彼女は長年、教会の門前で歌った。門の向こうにある記憶の一片が揺らいだようだった。

使者の一人が前に出て、礼儀正しく頭を下げた。「王都教会より。大司教ネロ様の命により、市内の音声資源の調査を行っております。孤児院様が所蔵する歌の一部を、お聞かせいただきたく──」

言葉は穏やかに紡がれるが、その輪郭は冷たかった。ハルは直感で、それが単なる調査ではないと知った。歌を集めて同調させるという噂。人々の声を一つの旋律に揃えるという計画。耳の奥で、見知らぬ誰かがゆっくりと弦を引くような感覚が走った。

「お断りします。」ハルは立ち上がった。「ここで歌うのは、子どもたちの同意があるときだけです。外部の記録や公開は一切認めません。」

使者の表情が微かに変わった。二人の背後に立つもう一人が書類をさっと取り出し、役人然とした声で付け加えた。「孤児院は公的監査の対象です。協力が得られない場合、施設の一部業務を一時停止し、市の管理下に置くこともございます。特に最近は──『同調』の重要性が上がっており、例外は認められません。」

その一言が、礼拝堂の温度を一気に下げた。ハルは四方を見回した。食卓でスープをすすっている子、靴を揃える子、まだ目に眠気の残る小さな顔。メイはいつもと違って、席から離れずハルの足元を見上げている。メイは言葉を持たない。けれど彼女には、聞く役としての重さがある。ハルは、メイの存在こそが一層の理由だと感じた。外の連中に、聞くことを奪われてはならない。

「大司教が何をしようとしているかは知っていますか?」セルマが言葉を滑らせた。彼女の瞳に一瞬、かすかな痛みが宿る。「歌を集め、整え、すべてを一つにするつもり。争いをなくすためという言葉で。あの人は、調和を『同じ声』だと誤解している。」

使者は唇を引き、少し困ったように笑った。「我が教会の目的は、安定と秩序です。混沌を避けるために、民の歌を整理することは、歴史的にも価値がある。孤児院の子どもたちの健康も、より良い生活も約束できます。」

「保証ですって?」ゴウが、低い声で口をついた。普段は口数の少ない彼だが、言葉は鋭かった。ゴウの声は本当に低く、ハルと寄り添わせるだけで、合唱に厚みをもたらす。だがゴウは自分の声を使って人を操られることを嫌っている。使者の「保証」を聞いて、眉をひそめた。

ハルは気をつけて言葉を選んだ。「歌で保証などできません。歌は人の記憶と人の痛みを繋ぐ。君たちがそれを外へ持ち出すなら、ずっと守ってきたものが壊れます。子どもたちの同意がない限り、演奏も録音もありえません。」

「同意、ですか。」使者は書類をめくる仕草を止めた。「しかし、一つの歌による統治は王都のためでもあります。混乱を避けるために、市民の記憶を整える必要がある。孤児院の歌も例外ではない。」

言葉の向こうに、威圧が滲む。ハルの脳裏に、前に聞いた話がよみがえる。ネロ大司教が掲げる「一つの歌」──人々の歌を一つに揃えれば、争いは消える。だが消えるのは争いだけではない。個々の記憶も、微かな感情のずれも、消えてしまう。ハルはそれを許せなかった。

「私たちは従いません。」セルマが立ち上がり、声に昔の強さが戻る。「ここにいる全員の意志が尊重されるまで、歌を晒すことはない。」

礼拝堂のざわめきが静まる。子どもたちが一斉に顔を上げ、目を光らせた。拒否は伝染する。ハルは、仲間たちの表情を見て、背筋が伸びるのを感じた。自分は孤独じゃない。だが、同じ拒否は、また別の代償を生む。

「では、記録を残さないのか?」使者は少し強い口調になった。「現状を報告するため、少しだけでも子どもたちの歌声を聞かせてもらえれば──」

その一言が、ハルの心の中で短い火花を散らした。もしここで歌を聞かせれば、外部へ流出するリスクは小さくない。だが、今は記録の方が危うい。イオが身振りで近づき、懐から小さな木箱を取り出す。箱の端から銀色の管が伸びていて、そこには微かな振動が刻まれている。イオは音を記録する修道士だ。彼は音を捕まえ、必要なときに再生する。イオの目つきは、迷いと判断の間で揺れた。

「我々の記録が、後で真実の証拠になることがあります。」イオは使者に向かって言った。「しかし、それは悪用される恐れもある。どこへ行くかわからぬ音を渡すわけにはいかない。」

使者は軽く首を振った。「理解はしますが、城の命令は従わねばなりません。なお、拒否が続けば、私どもは強制力を行使することになります。」

強制。言葉が礼拝堂を揺らす。ハルは、能力の規則を思い出した。声が重なることで道や結界を作る。その成立には、互いの声が「聞く」ことが必要だ。つまり、声は孤立しては働かない。だが誰かの声を大きくすると、その結界は脆くなる。強制は音を刃に変える。何より、彼が指揮を誤れば、自分自身の声を一日失う。失った一日の声は、子どもたちの助けのない中での無防備を意味する。

頭の中で、もし彼がここで短い守りを見せればどうなるかの計算が走る。小さくても実践を示せば、使者は満足して帰るかもしれない。だが、その記録や見せ物が公に広がれば、孤児院は標的になる。強引に一人の声を際立たせると、結界はもろくなる。強制が加われば音は刃と化す。ハルは指揮者として長年、舞台でそれを学んできた。力を誇示するだけでは、群れは守れないのだ。

「見せ物にしない。」ハルは静かに言い切った。「何も、録音もしない。子どもたちはあなた方の実験台ではない。もし殿下──いや大司教が何を目的にしているのか確かめたいなら、他でどうぞ。」

使者の頬が僅かに固まった。礼拝堂の隅で、ゴウが唇を噛