聖歌隊

聖歌隊 第3話「第2章」

「今夜、三人を逃がす。路地を抜けて東の小屋まで——声を合わせれば、道はできる」

「今夜、三人を逃がす。路地を抜けて東の小屋まで——声を合わせれば、道はできる」

ハルは声を張らずに言った。言葉は命令ではなく、約束に近い。背後には薄暗い礼拝堂の窓から漏れた月光と、孤児院の子どもたちが並んでいる。ゴウは片手を握りしめ、セルマは頷き、イオは小さな銅の筒を机に据えて何度も調整していた。メイはいつものように唇を閉じたまま、額に皺を寄せて前を向いている。周囲には抵抗するような空気はない。みんな、誰かを守りたいといった顔をしていた。

「徴収は二筋目の裏通りから回って来る。夜九つ前に通る。手際が悪ければ、徴収者は人を囲む。声で道を作る時間は三十秒ほどだ。そこを抜けるように指示する」ハルは一拍おいて続けた。「だが、忘れないで。声を一人だけ上げるな。強く押し出すと結界は裂ける。力づくで歌わせるのは厳禁だ。声が刃になる」

ゴウが低く笑った。「おれの声は強くするつもりないぜ。細いからってバカにすんなよ」

「その低さが必要だ。君の声があるから結界に厚みが出る。イオ、記録器は動かしたか」

イオは小さな機械をつまんで頷いた。缶のような形の底に薄い布が貼られ、その端に振動を拾う針が光っている。彼は機械を子どもたちの輪の中央に置き、囁くように訊いた。「同意は取ったか?」

セルマが答えた。「彼らはわかっている。怖いが、逃げる者の顔を見れば歌う。私はそれでいい」

ハルはメイの方に視線を移した。彼女はいつもそうするように、聞く側の姿勢でいる。口は閉じたまま、胸の奥の何かに耳を澄ませているようだった。ハルは小さく息を吸った。メイが歌わないことは不便でもあるが、この場面では別の役割を果たしていると感じていた。誰かの叫びが結界を壊すこともしばしばある。彼女の静けさが、むしろ声を守るための斜めの支えになる。

「商人たちに合図は出したか。家財は小屋の中に隠す。走る時間は短く、抜ける間に声は途切れてはいけない。声同士が互いを聞き合って重なること——それだけで道になる」

子どもたちは輪になり、肩を寄せた。誰もが緊張した面持ちだが、そこには決意がある。ハルは指揮棒を持たなかった。両の手を軽く上げ、指先を開いてみせる。昔の舞台監督時代の癖だ。指先の動きだけで合図を出し、テンポと音色の変化を指し示す。声量は要求しない。聞き合うことを促すのだ。

夜風が路地を流れ、遠くで誰かが笑った気配がする。ハルは目を細め、耳を澄ませた。徴収者たちの足音はまだ遠い。だが、街の空気は変わっていた。店先の明かりは減り、道の両側には見張りの影が増えている。最近、徴収のやり方が変わった。昔は金を取って去るだけだったのに、今は「歌」を聴くという名目で人の声を集めるらしい。そうして同じ旋律に人々を整えていく——噂は市井に広がり、その一部は孤児院の近くの小商人を直撃していた。

「準備はいいか?」ハルは低く訊ねた。子どもたちが揃って頷く。ゴウは生来の低い唸りを練習で抑え、細い吐息のように音を出した。セルマは古い歌姫の習慣で、ささやくように旋律の輪郭を作る。イオは記録器の針を見て、心拍の乱れを抑えるように手を置いた。メイはただ聴いた。

「三人は路地の影に伏せておけ。ハル、合図と同時に歌い出す。静かに、互いを聞く。イオは音を拾って外に返す補助をする。絶対に誰かを急かすな。わかったか?」

子どもたちの返事は小さいが確かな合図だった。ハルは息を合わせる。最初の音はゴウの低声とセルマの抑えたメロディが交わり始めた。二つの声が互いに耳を寄せ、重なり合うと、空気が微かに振動を始めた。目に見えるものではないが、ハルには違いが判った。光の粒子が伴うように、薄い膜が路地の入口を覆う。見えぬ糸の束が夜の街灯の下で揺れ、通行人の足音を舌打ちで吸い取るように静めた。

「今だ、三人、動け」

路地の影から三人の商人が丸い布包みを抱えて立ち上がる。彼らは足を滑らせるようにして、膜が作った道に沿い、細い隙間を通ってゆく。ハルは手を控えめに動かし、音の幅を調整する。声は合わせるが、どれか一つが飛び出ないように、互いの息遣いを聴かせる。音の合間に漂う静けさが、逆に道の境界を強化した。

ところが、路地の向こうから鋭い笛の音が響いた。徴収者の先導だ。彼らは装置を持っていた。細長い鉄筒を唇に当て、低い響きを作る。音は在りし日の呼び声のように人々の胸に入っていく。だが、その音には別の力があった。ハルは直感で分かった。筒の音が周囲の声の高さを掴み、同一の旋律へ引き寄せる——強制的に声を合わせるための器具だ。

「やばい、あれは同調の具だ」イオが小声で言う。記録器の針が細かく震えた。

ハルは子どもたちに目で合図を送る。だが徴収者の笛の音は急に高まり、路地の向こうで何かが起こった。笛は、声を同一に揃えようとする力を持つ。人間の声はそれに引かれ、そろそろと単一の旋律へと寄り始める。壁際にいた見張りの男が、呆然とした顔で同じ口の形をして歌い出す。声は周囲を満たすが、ハルの胸は凍った。思ったより早かった。

「押すな。押しては駄目だ」ハルは叫びたかったが、声を上げれば子どもたちの出す音のバランスを崩す。彼はかろうじて口を動かし、指先でゆっくりと円を描いた。低声と高声が互いを聞き合うように指示をした。だが、同調装置の影響は強い。ゴウの低い声がわずかに引かれ、セルマの旋律が一本調子に吸われる。結界の膜に亀裂が走ったように、夜風が冷たく通り抜ける。

徴収者の一人が短く咳き、無理やり誰かに掛け声をさせた。口が開かされるような音が出ると、その瞬間、空気が切り裂かれるような音がした。音の刃だ。木の箱が裂け、布が切り裂かれ、商人の一人が肩を斬られた。鮮血がぽたりと路上に落ちる。

ハルの体が震えた。声を強制する——それは禁忌の形だ。強制された声は刃となり、人を深く傷つける。ハルは、子どもたちを守るために手を伸ばすこともできなかった。彼は指揮棒でも何でもない、ただの少年に過ぎない。だが、それでもできることがあると信じていた。

「止めないで、押すな!」ハルはやっと、かすれた声で叫んだ。だが徴収者は笑った。彼らの笛は一層強まり、単調な旋律が周囲を占める。人々の声は同化し、結界の張りは薄れていく。薄くなった膜の隙間から、冷たい影が差し込む。

セルマが急いで歌い方を変えた。彼女は元歌姫の本能で声の色を変え、わざと語尾を曲げて不揃いにする。ゴウは唸りを短く切り、息をそっと混ぜた。イオは記録器の針を調整し、その音を外へ返すように弾力を持たせた。子どもたちは一瞬の混乱を乗り越えて、聞き合うことを再び選んだ。小さな調和の欠片が積み上がって、膜はかろうじて持ちこたえる。

だが三人目の商人は、肩を押さえながら顔をゆがめ、足を止めた。結界の向こう側で徴収者が近づく。鋭い風が裂け目から吹き込み、子どもたちの合唱が薄れていく。ハルは選択を迫られた。声を強く要求すれば短時間で道は広がるだろう。しかしその代わりに結界は脆くなり、誰かの叫びで全てが破壊される。彼は深く息を吸い、口をかすかに動かした。

「私を信じて。誰も強制しない。目を閉じて、自分の声を聴いて」

その言葉は合図だった。ハルは指先でリズムを示し、音の速さを