香水魔法 第17話「第15章」
「ここで、見つければいいんだよね?」
「ここで、見つければいいんだよね?」
フィオは工房の薄暗い間仕切りの影に身を隠しながら、声を落として言った。手にしたのは小さなガラス瓶。内部には、足元の作業台から盗んだと思しき花びらの切れ端が一枚、ぎゅっと押し込まれている。白い光を反射しない、その花びらは確かに"無臭"のはずだった。だがフィオにはわずかな残り香が届いていた。届いてくるべきでないもの――恐怖と、もうひとつ、ぐっと噛み殺されたような「抵抗」の影。
「無理をするな」とサナが低く釘を刺す。匂いを感じられない彼女は、代わりに視線と呼吸の刻みで空気を切り取る。腕に軽く巻いた手甲が、外からの衝撃を受け止められるように固かった。工房の中は規則正しい機械音と、薬草をすりつぶすスクレイパーの音だけで満たされている。手前の扉の向こうには、香料局の制服を着た監督者が座っていた。今ここで音一つ立てれば、全てが終わる。
「証拠は必要よ。言葉だけじゃ、ヴェルデは消すか押しつぶすかのどちらかしかない」ブランが低い声で言う。花市場で鍛えられた彼の息づかいは、昔からの取引と裏通しの匂いを含んでいる。年は取っても背筋はよく伸び、指先は札束よりも確かな動きを知っている。
「被害者を曝すな」とエメルが静かに付け加える。元貴族の薬草師は、揺るがない手つきでフィオの持つ瓶を受け取り、顕微鏡用の割り箸を用意した。彼の眼鏡の奥に光る知性は、この国の薬と政治がどう絡み合っているかを熟知している。エメルの口元はいつも薄く引き締まり、何かを守るために何かを断つ人のようだった。
ルクは胸にしがみついている古い上着を見つめていた。そこにはまだ微かに、雨と蜜の匂いが残っている。フィオはその匂いを指先にこすりつけ、思い出を確かめるように嗅いだ。雨と蜜は妹の指紋であり、同時に彼女の手がかりだ。だが今はそれ以上のことが重要だ。無臭花が恐怖を鎮めるという建前の裏に、抵抗をも消す意図がある。証拠がなければ、どれだけ叫んでも国は知らぬ顔をして政策を進めるだろう。
「ここにいる作業員の一人が、前の夜まだ泣いていたという話を聞いた」ブランが続ける。彼は周到に聞き込みをしていた。あの女工は名前を言わずに働く者の一人で、無臭花の扱いを担当していたらしい。もし彼女がまだ記憶を留めているなら、涙――本人の涙から何かを抽出できるかもしれない。フィオの能力は花や樹脂、涙から感情の残り香を取り出せる。それを使えば、あの花が何を宿しているのか、より精密に見えるはずだ。
「本人の同意が必要だ」フィオは言いかけて言葉を噛む。能力の掟は何度も彼女に痛みを教えている。感情は消せない。誰かの感情をいじるには、その人自身がどの感情を強めるか和らげるかを選ばなければならない。さらに、同じ香りを繰り返し用いれば効果は逆転する。最も恐ろしいのは、自分の香りを混ぜれば、フィオの大切な記憶が薄れていくという代償だ。今は妹の上着の匂いさえ、々薄れかけている。自分の香りを混ぜてまで真実を引き出すべきか。胸の奥がひりりと痛んだ。
「彼女に会わせてくれ」ルクが息を詰めた。「妹も、同じ花の匂いを嗅いだら――もし、抵抗を消す薬だとしたら、俺は…」
「わかってる」フィオはルクの小さな震えを見て、首を縦に振る。「でも、君の妹やあの女工を晒してはならない。証拠が確かなら、守る方法を先に考える。発見した瞬間から王室は口封じに来る。私たちは被害者を盾にできない」
サナが薄く笑った。それは慰めでもなければ激励でもない。ただ、戦場に出る前の冷静な計算だった。「じゃあ、証拠を持って安全に出る。そのために、どう動く?」
ブランが静かに指示を出す。エメルはガラス瓶を受け取り、顕微鏡の下に置いた。薄いスライスを作り、繊維の中にどんな混じりものがあるかを確かめる。フィオは奥の作業台に目を凝らした。そこには白い無臭花が並んでいる。花弁は仄かに青白く、触れると熱のような感覚が指に残る。人為的に育てられたものだとわかる。人の手の温度を吸い取るように、少し冷たい。
「これを、誰にも分からないように採取してくれ」エメルが呟く。「化学的な痕跡がある。触媒として使われている樹脂が、神経伝達に干渉している。だが問題は――それだけじゃない」
「だけじゃないどういうこと?」フィオは息を詰める。証明を唯一無二のものにするため、彼女は自分の能力だけでなく、化学分析も必要だと知っている。
エメルは顔を上げ、顕微鏡の視野を示した。そこに映っていたのは、花びらの組織に浸み込んだ細い線状の結晶と、それをつなぐ黒ずんだ微粒子。薬草師の目はそれを指差す。「これらの結晶は、単なる鎮静成分ではない。感情を『選択的に』抑える註釈がついている。つまり、標的は『恐怖』だけではなく、行動の起源となる『抵抗』の信号まで減衰させる設計になっている」
「そんなことができるのか」サナの手がぐっと力を込める。彼女は匂いは分からないが、表情と筋肉の収縮から人の内面を読む達人だ。工房の監督がちらりとこちらを見たが、何も怪しまなかった。それが救いでもあり、恐ろしさでもあった。
「導入試験の報告書があるはずだ」ブランが低く言う。「誰かが失敗を恐れて書き残したもの。それを見つければ、設計意図がはっきりする」
ブランは素早く古い戸棚を探り、埃を被った帳面を引っ張り出した。紙は古び、字は何種類もの手で走り書きされている。ページの端に押された橙色の印が証拠となる。彼がめくると、一行、また一行。実験データ、被験者の暗号名、血中の化学反応、そして「行動抑制」という単語が繰り返し現れる。フィオの心臓が早鐘を打った。
「ここにある。『抵抗の閾値低下』——被験者は意思決定に必要な情動的なエネルギーを失い、命令への服従が増加した。副次的に記憶の結びつきが弱くなる場合あり』とある」エメルが読み上げる。紙切れの上で文字が震えて見える。そこに、白い無臭花が恐怖を鎮めるという体裁の下で、実際には抵抗を消すために用いられていた痕跡が残っていた。
「奴らは、民衆が反抗しないように――そうか」ルクの声がかすれる。手にした上着の縫い目に指を這わせる。雨と蜜の匂いは彼の胸を焦がすように温かい。妹がそこにいるという希望が、紙の一行ごとに揺らいだ。
「証拠だ。公開して国中に知らせるべきだ」ブランは叫ぶように言い、手が震えた。商人の血が怒りで沸騰する。だがエメルが腕を伸ばして紐で帳面を軽く抑える。
「被害者の身が危ない。即公開は彼らにさらなる弾圧を招く可能性がある。局は証拠を握りつぶすために名誉毀損の名で反撃し、被験者の顔を晒して『誤認』を主張するだろう」エメルの言葉は冷たい。だがそこにあるのは、守るべき者の存在を先に考える判断だった。
フィオは瓶を掴み、口元へと運んだ。自分の呼吸が震えているのを感じる。ここで能力を使えば、直接的な証拠を立てられる。作業員の涙を一滴でも手に入れれば、フィオはそこから残り香を抽出し、被害者本人に「抵抗が消えた」という体験をしてもらい、それを証言として使える。しかし、彼女の香りを混ぜる誘惑がいつも脳裏をよぎる。一瞬だけ自分の匂いを混ぜれば、記憶の欠片を深く掘り起こし、隠された日時や場所を明瞭に引き出せるか