不死者の宿屋

不死者の宿屋 第25話「第23章」

夜風が宿の瓦屋根を撫で、灯明の列が細い坂道を沿って揺れていた。祭りの喧騒は帳場にまで届く。カイはいつもの革張りの椅子に肘をつき、客帳と六つの鍵を見下ろしていた。今したいのはただひとつ──名を失った者が自分で名を書くところを見届け、その手で扉を開かせることだ。やり方は既に定めている。強制はしない。順序と同意を守る。だが妨げはいつも目の前にある。手の届かない六番目の鍵、そして同時に開けられるのは五室までという能力の上限。さらに何より彼を縛るのは、自分自身が夢に入れないという禁止だ。寝返り一つ打てば夢は奪われ、もし壊れればそこにあった記憶さえ薄れる。――その代償を誰にも負わせたくない。

夜風が宿の瓦屋根を撫で、灯明の列が細い坂道を沿って揺れていた。祭りの喧騒は帳場にまで届く。カイはいつもの革張りの椅子に肘をつき、客帳と六つの鍵を見下ろしていた。今したいのはただひとつ──名を失った者が自分で名を書くところを見届け、その手で扉を開かせることだ。やり方は既に定めている。強制はしない。順序と同意を守る。だが妨げはいつも目の前にある。手の届かない六番目の鍵、そして同時に開けられるのは五室までという能力の上限。さらに何より彼を縛るのは、自分自身が夢に入れないという禁止だ。寝返り一つ打てば夢は奪われ、もし壊れればそこにあった記憶さえ薄れる。――その代償を誰にも負わせたくない。

「カイ、壁の灯を増やして。通路の人の流れが乱れると危ないわ」ベラが皿を手にしつつ声をかける。給仕長の指先は確かで、祭りの喧噪の中でも無駄がない。アニカは木の柵を抱えて、入り口で人数を捌いている。騎士とは思えない手つきである。バロは客帳の前に座り込んで、紙束に鼻を押し付けるようにして嗅ぎ回っていた。老犬霊の目は濁らず、ただ何かを見据えている。

「五の枠はもう埋まっている。順番表に名前があるだけで、待ち札を持っている者は二十を越えた」アニカが息を吐いた。「どう割り振る気だ。兵士どもが来て押し付けられるのはごめんだ」

「そういうときは、話をする。選んでもらうんだ」カイは柔らかく答えた。声には迷いが混じるが、決意もある。自分で扉を開けない、その弱さを受け入れたうえで、人々に自分の選択を促す。宿は代わりに選ばない。選ぶのはいつも、鍵を預ける者自身だ。

小さなざわめきが帳場の外で高まる。ひときわ静かな気配が寄ってきた。皆が顔を上げると、黒ずんだ軍服のような服が床にまとわりつき、身体は薄く光る灰色の膜でできている男がゆっくりと近づいてきた。名のない不死者だ。顔の彫りは浅く、目は膨らんだ暗い穴。手には何もないように見えたが、その動きは確固としていた。

「来たか」バロの短い声。犬霊の尻尾が一度ピクリと震えた。「奴らが来ると、どうしてもこうなる」

「だが、ここを勝手に騒ぎ立てる権利は誰にもない」バロは低くつぶやく。彼の毛皮は銀灰色の光を放ち、どこか懐かしい獣の匂いがする。カイは一歩立ち上がり、扉の前に立っていた列をやんわりと制する。

名もなき者は客帳の前で立ち止まった。指先のほうへ向けてぼんやりと視線を向け、しばらくののち、指先で空中に小さな線を引いた。そこに何かが浮かぶ――無言の意思。バロが前脚を前に出し、古ぼけたペン皿を鼻先で転がすと、ベラが沈黙のうちに差し出した。ペン先は震えていた。インクがカサリと鳴る。

「触らせるのか、カイ」アニカの声には割り切れない苛立ちが混じっている。「名もない者にここを弄らせることが、どうしていいことだと?」

「選択させるんだ。強制じゃない。自分の意思で書くかどうかを、だれも奪わない」カイの返答は短い。彼は自分の能力の限界を思い出す。四つ並んだ鍵のうち、五番までが既に運用を開始している。六番目は棚の一番奥に、誰も触らないように引掛けてある。それに触れられるのは――宿主以外の、ある条件を満たした者だけだ。カイ自身はこれまで何度もその鍵に手を伸ばしたが、指先に冷たさが走るだけで開かなかった。いま立っているのは、ただ見届けるしかない男だ。

名もなき者はゆっくりと筆を取るように見せ、どこに書くのかを探す。客帳はバロの前で微かに震えていた。白いページの空白が、無数の名を受け止める準備をしている。空白のひとつに、指先が近づく。バロは鼻を寄せ、目を細める。だがその敵意はない。静かな確認だ。

「気をつけろよ」ベラが囁いた。「一度壊れた夢は取り返せない。触れられないように、周囲の者に手を出させちゃいけない」

人々の視線が集まる。誰もが名もなき者の行為を監視している。書いたら、その一瞬にすべてが変わる。カイは手を胸に当て、深く息を吸った。彼の能力は、鍵を宿に預けた者の眠れぬ理由を夜の夢景として具現化する。だがその夢が崩れれば、そこにあった記憶も風に散る。それを知る者は増えていた。不安が人々の間に渦を巻く。

ペン先が紙に触れた。鉛筆の擦れる音とは少し違う、柔らかな摺動音が帳場に流れた。最初の線は震えていた。次の線は少し固くなり、そして文字が生まれる。名もなき者の字はぎこちないが、そこには確かな線がある。三つの筆跡が折れて結び、終わるところで小さな点が置かれた。客帳の空白に、黒い墨で名が刻まれる。誰も呼ぶことのなかった名前が、宿屋の記録に触れた。

「……書いた」バロの声は褒め言葉にも聞こえた。「あれで認められるはずだ。名は形になる」

カイの胸の奥が熱くなった。祭りの灯が揺れて、帳場に差し込む影が踊る。名もなき者はゆっくりと紙を閉じ、鍵の棚をじっと見た。人々の顔は緊張で硬い。六番目の鍵は、いつもとは違う光を放っているように見える。誰も手を出さない。誰もが、あの鍵に触れることをカイに委ねたときのような、重い黙礼をしている。

名もなき者は、少しの間を置いてから棚に向かい、一歩を踏み出した。カイは思わず前に出ようとしたが、バロが目で制した。宿主はその場に立って、ただ見守る。代わりに他の誰かが動くのは、宿の約束に反する。鍵はただそこにあるだけではなく、預けられる相手を待っている。しかもそれはカイが開けられるものではない。六番目は宿主が扱えない「自分の夢の部屋」なのだという仮説が、これまで血のにじむような調査で徐々に姿を現していた。名を得た者が、自分で鍵を預ければいい。それがカイの新しい考え方だった。

名もなき者は片手を伸ばし、指先で鍵の輪に触れた。鍵は冷たく、軽く震えた。誰かが息を呑む音がした。その瞬間、屋内の空気が張りつめる。鍵は棚から外れて、カウンターの上に軽く滑り落ちる。誰も手を伸ばさない。名もなき者が鍵を取り、そっと自分の胸元に当てた。そこに一つの意思が宿る。受付の上に置かれた小さな皿が、鍵の重みを認めた。

「これで、いいのか?」アニカが声を上げる。彼女の剣が化粧箱のように光った。戦闘のときの眼差しとは違って、迷いが見える。

「いい。強制じゃない。自分の手で預けたなら、それは彼の意思だ」カイは厳しく言った。自分は夢に入れない。だからこそその意思の貴さを知っている。もし誰かが強制し、夢が壊れたら、その者は自分の過去さえ失う。だからこそ、選択の自由を守るべきだ。

名もなき者は、鍵を皿の上に置いた。指は微かに震えていたが、はっきりとそこに置かれた。バロが鼻先で鍵を嗅ぎ、その後で顔を上げて鼻を鳴らす。幼い犬が尾を振る仕草のように、宿の空気が和らぐ。

鍵が皿に触れた瞬間、五つまでの同時開放という限界を超えて、空気が波立った。カイの胸が締め付けられるようにする。自分の能力は、鍵を預けられた部屋の夢景を一夜だけ具現化する。今、六つ目が加わった。彼は五つという数字が数字以上の重みを持っていることを知っている。もし夢が重なれば、互いに干渉し、破壊が起きるかもしれない。記憶の消失は一度に複数の家族へ降りかかる。慎重にしなければならない。

だが、カイは選んだ。彼は自分を引き戻すことなく、静かに指示を出し