花火師 第28話「終章」
朝靄の向こう、帰天祭の幟が風に薄く揺れた。ユウは手ぬぐいで焦げついた右手首の痕を拭いながら、小さな広場の片隅で詰め所の地図を指さした。地図上には、分担された三色――赤、青、金――の印がそれぞれの工房の上に色分けされて並んでいる。色はもはや彼だけのものではなく、あちこちの職人の手と足と音で埋められていた。
朝靄の向こう、帰天祭の幟が風に薄く揺れた。ユウは手ぬぐいで焦げついた右手首の痕を拭いながら、小さな広場の片隅で詰め所の地図を指さした。地図上には、分担された三色――赤、青、金――の印がそれぞれの工房の上に色分けされて並んでいる。色はもはや彼だけのものではなく、あちこちの職人の手と足と音で埋められていた。
「今日は、戻ってくる人たちを、ちゃんと迎えよう」ミナが低く言った。避難区画を代表するその声は、以前の不安とは違う確かな震えを含んでいた。周囲の人々が小さく頷く。子どもたちが列の前で耳栓を外し合っている。あの日の耳栓は恐れの証だったが、今は選択の道具だ。子どもたちの指先には、小さな鈴や木の板、帆布を叩くための薄い棒が握られている。それぞれの音が、合図となる可能性を持っている。
ユウは地図に目を落としたまま、手元の金属箱を開ける。そこには最終調整用の金の糸が巻かれていた。金は守りを示す色だ。王都の回路に嘗て走っていたその線は、今は三か所に分割され、地方の工房に配られている。だが、彼が知っているのは一つだけの厳しい事実――金を使うたび、自分の痛みが遠のくこと、痛覚が薄れていくことだった。目をこらさないと、指先の焼け跡に気づけない。だから彼は今日、この糸を自分で大量に引くつもりはなかった。
「ユウ、調子はどうだ?」ガルドが腕組みをして近づく。元宮廷点火士は相変わらず厚い掌で、しかし近ごろはその眼差しに若干の柔らかさが混じっている。ガルドの背後では、数人の職人が最後の確認をしていた。彼らはそれぞれ赤か青あるいは金の小さな筒を抱えている。誰もが自分の色に責任を持っていた。
「……痛い、という感覚が鈍い」ユウは素直に答えた。「手首はまだ、走るような痺れがある。でも今日は監督に徹する。大きな金は使わない。分散でいくんだ」
ガルドは短く息をつき、そして笑った。笑いは無口な人間の唯一の祝福だ。「よかろう。だが気を抜くな。金は守るが、守るがゆえに盲くなる。合点はしておけ」
リラはそのとき、広場の片隅で小さな音に耳を澄ませていた。彼女は音を色として"聞く"少女だ。胸に抱えた小さな鼓の縁を指で叩いて、低いベルのような音を出す。それを聞いて彼女の瞳が一瞬、青く光る。リラの能力は音を色に結びつけ、合図を正確に伝えることができる。今日、彼女は合図の決定権を持っている。
「北の工房、金の回路確認、もう一度」リラが淡々と言う。声は小さいが、周囲に迅速に伝わる。若い職人が鍋を運び、誰かが小さな撚り線を手渡す。赤を担う町工房の責任者がやって来て、ユウに向かって軽く会釈した。ミナは腕を組んだまま、子どもたちに微笑みかける。
「覚えてるかい、ユウ。あなたが最初にここで教えてくれたあの紐の編み方」ミナが顎で示す。言われてユウは手元の金糸に触れ、指先で軽く編み始める。赤い火薬の粒に残る熱を探り、青の石の方向性を確かめ、金の微かな波を織り込む。編むのは儀式ではなく、技術だ。だが同時に、それは信頼の証でもある。
「重ねるな、同じ色を」となりの職人が低く注意する。誰もがその言葉を知っている。色を重ねれば暴発する。単純だが致命的な規則が、何度も何度も彼らを縛ってきた。今日は誰も失敗ができない日だ。合図と推進と守りが、それぞれの手に分配されている。三色を同時に扱えるのは最大三つ、同色の重複は絶対に避ける。ユウはそれを胸に刻む。
始まりの音が広場を走る。子どもが選んだのは、暖い木の板を手のひらでたたく軽いリズムだった。リラは眼を閉じ、音を"色"に変換していく。彼女が目を開けると、その目は金を示す淡い照りを帯びていた。
「金は南、青は東、赤は北」リラが言う。彼女の声は合図の言葉ではなく、色の受け渡しだ。青を担う海辺の工房では、すでに長い矢のような花火筒が水平に並べられていた。赤を担う裏通りの職人たちは、推進の調整を済ませている。金はユウの工房ではなく、南の小さな工房に割り当てられていた。しかし合図は連動しなければならない。
「今だ」ミナが短く合図を送る。人々は息を飲む。小さな鼓と鈴の音が次々と鳴り、リラがそれを色に翻訳してゆく。青が先に走り、夜空の低い空気を引き裂くようにして方向を指し示す。赤が続き、火薬の息を吹き上げる。金は最後に柔らかく天を守るように広がる。三つの色が、一つの防壁を形作っていく。
だがその瞬間、北側の回路に微かな不協和音が生じた。隣接する工房の一つが、見合わせのために発火を止めてしまったのだ。長い防壁は連なりに依存している。ひとつが欠ければ綻びが生まれる。空気が急に冷たくなった。
ユウは瞬間的に手を伸ばした。金糸を一撚り取り、自らの内にある金の熱を手のひらで編もうとする。金は守りだ。金は回路を繋ぐ。だが同時に、金を引けば彼の痛覚は刻々と薄れていく。もし彼が突発的に大量の金を使えば、帰ってくるはずの守る対象の安否に自分で気づけなくなる恐れがある。彼の右手はもう完全ではない。失われた感覚が、判断の誤りを招く。
ガルドの声が脳裏に割り込む。「引きすぎるな。仲間を頼るんだ」
ユウは糸を握ったまま、呼吸を整えた。彼の指先にいくらかの温かさが流れる。金の波が指の間を伝っていくのを感じると、深く眠る痛みが遠ざかる。だが遠ざかると同時に、視界にチラつきが生じる。自分の指の微かな焦げた匂いに気づけない。そこでユウは糸を放した。代わりに彼は声を張った。
「北!手を止めたな。こちらが橋を出す。二段階で行く、まずは青で方向を固定、次に少量の金を南の工房に送る!」
命令ではない。誘いだ。ユウは金糸を隣の若い職人に渡す。彼はまだ手の震えが残るが、自分の色を守る誇りがある。若者は緊張した顔で糸を受け取り、ミナが差し出した小型の導火管に結びつける。ユウはそれを見守りながら、自分の中の痛覚の欠落を常にチェックするために、ガルドに手首を軽く掴ませた。ガルドは無言で頷き、ユウの手首を覗き込む。共同の作業だ。ユウは自分ひとりで守らない。
「いくぞ」リラが低く言う。彼女の合図で、北側の工房も動き始める。青の列が空を裂き、赤が炎を噴出して軌道を描く。金糸は小さな弧を描いて南の工房へと伝わり、そこでわずかな守りの光を放った。金は最小限に、しかし致命的な役割を果たした。ユウは自分の指が痛みを感じるかどうかに気を配りながら、だがそれ以上に、若い職人の顔つきに目を向けていた。そいつの手は震えていたが、火は確かに渡った。
花火は防壁となった。空を走る三色のアーチは不完全ながらも繋がり、夜明けの曙を守る薄いドームを作った。歓声が沸く。泣き声と笑い声が混ざる。子どもたちは耳栓を外して、それぞれの音を選ぶ手を誇らしげに掲げた。以前の耳栓は、今日、選択のための器具となった。彼らは自分の意志で音を出し、合図を担った。
ミナがユウの傍にやってきて肩に手を置いた。「あなたは、あの時のままのユウだ。でも、今日のあなたはひとりじゃない」
ユウはかすかに笑った。笑いは息のように小さかったが、確かにそこにあった。「一人では、もうできない。それでいい、だろう?」
ミナの瞳が潤む。「いいわ。あなたが教えたから、皆ができるようになった。あなたがそのまま残ってくれた