花火師

花火師 第13話「第12章」

火薬の匂いは、いつだって安心を運んできた。湿った土と焦げた紙と、安定した振動──ユウはそのすべてを身体で覚えている。だが今夜の匂いは違った。混じりけのない不安が鼻腔を刺し、風は低く囁いて空の色を濁らせる。避難民区画の広場に並んだ簡素な櫓の上で、ミナは震える声を押し殺して言った。

火薬の匂いは、いつだって安心を運んできた。湿った土と焦げた紙と、安定した振動──ユウはそのすべてを身体で覚えている。だが今夜の匂いは違った。混じりけのない不安が鼻腔を刺し、風は低く囁いて空の色を濁らせる。避難民区画の広場に並んだ簡素な櫓の上で、ミナは震える声を押し殺して言った。

「ユウ、お願い。小さくてもいいの。帰天祭だって、子どもたちが言ったのよ。空がまた光るって、少しでも……」

子どもたちの列の先端で、耳栓をぎゅっと握りしめた小さな手が見えた。耳栓は二つに切られた布切れを縫い合わせたような粗末なものだ。子どもの瞳は固く閉ざされているが、隣の子が手を引くたびにふっと緊張がほどけて、口許から小さな笑いが零れる。ユウはその笑いを守るためにここにいる。守る対象は避難民区画の人々、そして花火を怖がる子どもたち。そのために、ユウは今したいことをはっきりと知っていた。上空に小さな防壁を浮かべ、寒さと夜の闇と恐怖から街を守る。だが妨げは目の前にあった。

「材料が足りない。金はほんのわずかしか残ってない」ガルドが櫓の奥で言う。元宮廷点火士の指先は無駄がなく、古い傷跡が火の仕事の歴史を語っていた。ガルドはユウをまっすぐに見据えた。「金を使えば守りは作れる。しかし、君が使いすぎれば──」

「分かってる」ユウは首を振って、櫓の端に置かれた古い筒を手に取った。筒の内側には細い金の線が走っていた。壊れた筒の内側に残ったその線は、序章で見つけたときと同じ薄い光を帯びている。ユウはその光の感触を手のひらで覚えたような気がする。赤と青は用意できる。熱と方向。それを組み合わせて、低くて確かな防壁を作る。だが守りの金は、どうしても必要だった。

リラが低く息を吐いた。床縁に座り、彼女は小さな鈴を指先で転がしていた。音を色に変えて聞く少女だ。鈴の高低で彼女は合図の配列を重ね、夜空に浮かべる色の調を決める。リラは目を閉じ、耳の奥で色を探すようにしていくつかの音を口に出した。

「赤──低い太鼓。青──風の歌。金は……静かな鐘の余韻」

その言葉だけで、ユウは安心した。仲間がいる。技術は単独では意味を持たない。合意と手順があれば、金の危険を最小限に出来るはずだ。ミナは子どもたちに振り向き、ふたたび笑いを誘うように声を張った。「みんな、ちょっとだけ我慢して。ユウたちがきっと、空を守るから」

火薬を扱うときには手順がすべてだ。ユウは赤と青と金を織る順序を口に出して確認する。三色までしか扱えない。重ねてはならない。同じ色を重ねれば筒は暴発する。金は使えば使うほど、ユウの痛覚は遠ざかる。知識として何度も繰り返してきたが、言葉は夜の現場で空虚に鳴る。実際の手元では、手順を守ることと仲間の声に頼ることだけが頼みの綱だ。

「赤を二本、青で向きを整えて、金は一つ。ユウは金を直に触るときはリラの合図を待って。ガルド、火付けは君の合図でいいか」ガルドが頷く。彼の役目は点火の最終確認、何よりも発火の管理だ。ユウは筒の口に指を滑らせ、金の線が薄く光るのを確かめる。小さな粒子をつまむように、彼は金の一滴を取り出した。

それは儀式のようにゆっくり進むはずだった。だが、風が急に強くなって広場の布がはためき、子どもたちの囁きが掻き消された瞬間、遠くから鋭い声が聞こえた。誰かが見張りを上げたのだ。王都の監視が近い。警戒の声に、会場の空気が一瞬で固くなる。

「時間を稼いでくれ、ユウ」ミナの手が肩を押す。彼女の瞳には、正確な計算などない。あるのは絶対に縮まない決意だけだ。ユウは金を握りしめ、赤と青を編み始めた。赤を芯に、青で方向を束ねる。一本の花火が、空へ向かって飛び立つための形ができていく。

色は、ユウの手の中で音を持った。赤が膨らむと熱の匂いが濃くなる。青を添えると、空気が引き絞られて推進の感覚が生まれる。最後に金をそっと添えれば、打ち上げられた火が周囲を守る一種の薄い膜をなすはずだ。ユウの掌の奥底で、金の末端が冷たく震えた。その瞬間、痛みが遠のいた。

最初は小さな違和感だった。手のひらに何かが触れたはずなのに、熱さが直接刺してこない。まるで冬に手袋を二枚重ねたように、境界がぼやける。ユウは瞬間的に警戒したが、作業は止められない。子どもたちの顔が燐光のように浮かぶ。ミナの牙を噛むような意思。リラの鈴の音。ガルドの監視の目。全部が同時にユウを押した。

「リラ、合図を」ユウは声を張った。リラは目を開け、口から低い音を紡ぐ。鐘の余韻だ。ユウは金を振りほどくように一振りし、筒に金を封じた。次の瞬間、ガルドが火打石を叩く。小さな火が火薬へと達し、花火は嗚咽のような音を立てて空へ飛び出した。

空に広がったのは、想像よりも高く澄んだ一束の光だった。赤が熱の波を描き、青がその軌道を正確に整え、金が四辺に薄い光の輪を浮かべた。輪は一瞬、夜風に震えたが淡く街を覆い、広場の人々は息を呑んだ。耳栓をしていた子が指を放した。眼を開けたまま、ゆっくりと、心底からの笑いがこぼれ落ちた。

だが喜びは長くは続かなかった。金の使用は、ユウの手から何かを奪っていく。火が二つ三つと続けて打ち上げられ、ユウは自分の右手の甲に違和感を覚える。湿ったような、粘るような何か。見ると、作業で火薬の破片が跳ねた跡に赤い光が滲んでいる。焼けた皮膚ではなく、焦げた布のようなにおい。ユウは手の感覚を探ったが、冷たい部分と熱い部分の境界が分からない。痛みがない。代わりに、空虚な遠さが掌の中に広がっていた。

「ユウ、大丈夫か?」ガルドが手を伸ばしてきた。だがユウは首を振った。治療が必要なのは分かっている。だが、祭りは続けなければならない。子どもたちはもう一度光を求めている。ミナが小さな子に毛布を渡し、子どもはまだ震えながらも光を見る。ユウは右手をポケットに突っ込み、咄嗟に嘘をついた。

「少し熱いだけ。すぐに続ける」

誰もが葛藤の中にいる。リラはユウの手元へ近づき、音の感覚を手の動きに重ねるようにして言った。「痛みがないときは、触覚以外で確認する。色の反応、熱の波形、材料の色合い……ユウ、君が見えなくても、私が聞くから」

リラの言葉は薬のように効いたが、同時に重い。ユウは自分の痛覚の喪失を他人の観察で補完するしかない。ガルドは包帯を取り出し、手早く患部を覆った。彼の動作は手慣れているが、その目元に影がさした。点火士らしい冷静さと、友人への怒りが混じる。

「君が前線に立ちすぎた」ガルドが低く言った。「金は君だけで扱うべきものじゃない。今は君の手を休めろ」

しかしミナが首を振る。彼女の顔は泥と涙で汚れているが、声は震えていない。「ユウがいなくなったら、私たちに誰が合図を出すの? 誰が安全手順を守るの? 今は、祭りを──」

ユウは言葉を遮った。「私は前に出ない。統括をする。手を動かすのは今日だけ、ほんの少しだけ」彼の中で何かが崩れそうになる。痛みがないからこそ、無理ができる。だが無理はいつか代償を払わせる。ユウはそれを知っている。だがその知識が、目の前の子どもの笑顔の前では空虚に鳴った。

「やるべき手順を変える」ユウは決めて言った。「金はこれ以上使わない。赤と青の連携で防壁を低く多重に作