城運び屋 第7話「第6章」
朝の光が作業場の窓を斜めに切り取ったとき、カイの世界にはもうひとつ、色が薄れていく領域があった。思い出の端っこから、紙の縁のように白くなっていく。噛み締めたレモンのような酸っぱい匂いが消えていくと、同じ場所に入っていた名前や顔の輪郭だけが残る。彼はその感覚を知っていた。動かすたび、触れるたび、なにかが抜け落ちる。
朝の光が作業場の窓を斜めに切り取ったとき、カイの世界にはもうひとつ、色が薄れていく領域があった。思い出の端っこから、紙の縁のように白くなっていく。噛み締めたレモンのような酸っぱい匂いが消えていくと、同じ場所に入っていた名前や顔の輪郭だけが残る。彼はその感覚を知っていた。動かすたび、触れるたび、なにかが抜け落ちる。
ミラは作業場の端で針と糸を休め、カイの腕元をじっと見ていた。彼の手にはまだ、ありがとうのつもりだろうと渡した短い紙片が残っている。そこには、どの箱に何を詰めたか、誰に預けるかがぎっしり書かれていた。ソウが書き写してくれたものだ。だがカイがその文字を追っても、そこに貼り付いた感情は戻らなかった。文章はそこにある。音はない。
「やめておけって言ったのに」ミラの声は尖らず、低く告げられた。糸印が縫い込まれた手袋を彼女は胸元でぎゅっと握る。手袋はまだ暖かく、縫い目の小さな跡はきらりと光る。だがカイの指先は、その光を見ても反射的に笑うことはなかった。
「止められないんだ」カイは言った。言葉に迷いはあったが、その意思は揺れなかった。「運べるなら、運ぶ。終わらせないと、もっと失う」
ミラは手袋を差し出した。二度目の差し出しだった。最初のとき、彼はそれを「借り物」として拒んだ。今回は違う。ミラの指先から伝わる温度は彼を溶かさないが、彼の中に小さな空洞を埋めるには十分だった。彼は手袋をはめ、糸印のざらつきを確かめると、もう一度だけミラの顔を見た。見覚えはある。だがその由来までは思い出せない。
ソウがそっと近づき、羊皮紙の束を彼に差し出す。「僕が写しておいた。ここにあることを、紙が覚えてくれるように」
その羊皮紙を受け取ったとき、カイは自分が読むべき文章を追いかけた。ソウは地図の書き方、出入口の傾き、鐘が鳴ったときの廊下の折れ方まで細かく注釈を付けていた。ページの端にはソウの筆跡で短い言葉が書かれている。『忘れても、誰かが補えばいい』——そう彼が言ったことは、文字がはっきりと証明している。しかし妙なことに、カイの胸はそれで満たされなかった。説明は頭に入り、理解はしているが、温度がない。ソウの有無が彼にとって音楽か無音かを分ける決定的な何かが、消えていった。
「読んでも、戻らないのか」ソウは静かに訊ねた。羊皮紙の端を噛むようにして彼は首を振った。「文字はある。声はない。それでも、ありがたい」
ミラがそっと近寄り、カイの肩を叩いた。言葉より軽い、しかし確かな接触。「忘れるのが怖いなら、覚えている者がいる。私もその一人だって、忘れないで」
だが彼女の目にも不安が滲んでいた。カイが動くたびに、影のような欠片が後ろへこぼれ落ちるのをミラは見ていた。あの夜、彼女が初めてこの人を見た――という記憶の端罅が、今やあやふやになっているのを。修繕の師匠の膝を蹴り上げてはにかんでいた笑い声や、彼が板を削る指先に惚れ込んだ瞬間が、まるで別人の履歴のように遠い。
「止めた方がいい」彼女は小声で言った。「君は『運ぶ』ことが仕事なんだろう。だとしても、あなた自身を運ぶわけにはいかない」
その言葉は正論だった。だがカイは箱を肩にかけると、少しだけ肩をすくめて応えた。「僕が居なくなったら、誰が彼らの名前を繋げる? 僕が記憶を失うことによって、ここに残る人の居場所が消えるのは許せない」
ミラは黙った。そこに怒りも嘆きも、押し黙った哀しみだけがあった。彼女は言葉を替えようとしたが、やめた。これ以上議論すれば、彼を止められないと知っているからだ。
作業場を出ると、城の空気は冷たく澄んでいた。ハコは先に飛び出し、土足の床に小さな足跡を刻んでいる。首輪の鍵はいつもと同じ律動で、金属の軽い音を立てた。聞く者にだけわかる音階がそこにはあり、カイにはそれがどれほど慰めになるかはわからなかった。鳴るほどに彼の中の何かが確かになるのではなく、鳴るたびに彼はそれを記憶帳へ押し付けるように進んでいった。
最初の荷は、王女の文机につけられた小箱だった。箱には手紙、古びたインク、女官が編んだ小さな刺繍が詰まっている。カイが手を触れると、家具から伸びる線が半透明にほころび、目的地の暖色の光が差した。これは「本当に帰りたい場所」だ、と彼は直感した。光の道に沿って、箱は壁をすり抜けるように動いた。床板を踏む感触はなく、音はそのままに風だけが移動する。道が伸びると同時に、彼の胸の端にあった一つの記憶がすうっと消えた。ミラと彼が初めて顔を合わせた日の、彼女の笑い方。そこにあった小さな出来事の輪郭が白くなって、まるで塗り潰されたようになった。
箱を所定の位置へ差し込んだ瞬間、王女は低い声で「ありがとう」と呟いた。生き物の声は彼の能力で運べない。だが家具が先に帰ったことが、王女の胸に何かを動かした。彼女の眉がはっと開いた。カイはそれをただ、遠巻きに見ているしかなかった。自分の指から流れ出た記憶の一欠片を、もう一度取り戻す術はなかった。
次に運んだのは侍女の寝台だった。豪奢とは言えない、小さな折り畳み式の布団と軽い枕。布の角を撫でると、布の繊維が柔らかな光線を描いて、故郷のある屋根裏の匂いを送ってきた。暖色の道が伸び、寝台は壁の向こうの窓辺へ滑りこんでいく。そのとき、カイの中の別の記憶が消えた。ソウが何故、毎夜の地図を写すことにこだわるのか——その理由の輪郭が薄くなっていった。彼が夜毎に羊皮紙を何度も折り、ひとつずつ検証していた過程、誰かに誓った小さな約束。それが白く抜け落ちて、ただ「ソウは地図を写す」とだけ残った。
動き続けると、何かが彼の身体を震わせる。手の内に空いた穴を、今の仕事で埋めようとしていることを彼は理解していた。だがそれは埋め合わせではない。箱や刀台や裁縫箱を移すごとに、彼は自分という本の頁を一枚ずつ破り取っていた。冊数が減れば減るほど、本は軽くなるが、読むべき章も少なくなる。
ハコが小さな鳴き声を上げた。彼はハコを組合が拾ってきたと聞いていた。土曜日の朝に、道端でうずくまっていたのを見つけた——そんな記憶があるはずだった。だが三つ目の移送が終わった瞬間、その出自の詳細がつるりと消えた。組合の誰の手で拾われたのか、どんな事情だったのか。断片がなくなると、ハコの存在自体は変わらない。彼は依然として小さく、走り回り、首輪の鍵を鳴らし、役に立つ匂いだけで動く。しかしカイはその成り立ちを説明できなくなっていた。
「何を失った?」ミラが訊ねる。言葉は軽く投げられたが、問の重さは深い。カイは肩をすくめる。彼が失ったものは数えられない。だが具体的に挙げることができない。彼は自分の口から触感や匂い、声の思い出を取り出せないでいた。
「大事なもの――だと思う」彼は答えた。嘘ではない。だが「大事」の輪郭はゆらいでいて、掴めなかった。
街の空気が変わった。遠くの塔が低く鳴り、鐘が二度を告げた。鐘の音はいつもと違った。二度目の響きが城壁の石にぶつかると、石の乳白色の表面に走る青い線が一瞬震えた。ソウは顔を強張らせ、手の羊皮紙をぎゅっと握る。「次の鐘で、外側の部屋が動くかもしれない」と彼は言った。
そのとき、レイヴが現れた。彼はいつも羽織る