雲紡ぎの気球整備士 第7話「第6章」
空は裂け、風は薄くなっていた。灰雨の粒は空船の帆を撫でるように落ち、膜の縁は蚕の繭のように薄く光っている。甲板の上から見る景色は、まるで巨大な織物が中心へ向けてたわみ、一本の針に吸い寄せられているようだった。イオの目には、いつもの金色の継ぎ目が走る。触れて直した場所はよく通る一本の線となり、未知の機構は点線で途切れている。だがその先、彼がこれまでに見たことのない複雑な交差が、中心へ向かって渦巻いていた。
空は裂け、風は薄くなっていた。灰雨の粒は空船の帆を撫でるように落ち、膜の縁は蚕の繭のように薄く光っている。甲板の上から見る景色は、まるで巨大な織物が中心へ向けてたわみ、一本の針に吸い寄せられているようだった。イオの目には、いつもの金色の継ぎ目が走る。触れて直した場所はよく通る一本の線となり、未知の機構は点線で途切れている。だがその先、彼がこれまでに見たことのない複雑な交差が、中心へ向かって渦巻いていた。
「ここが、中心だ」バロが言った。甲板の風切り音に混じって、彼の声は小さく震えている。操舵の緊張に照らされた陽気さは影を落とし、代わりに頑丈な顎が現れた。「俺たちが最後に触るところだ。なんとか持たせろよ、イオ」
リュネは黙っていた。唇の端で小さな旋律を繰り返し、歌に含まれる低音を確かめるように首を動かす。彼女の指先は、古い調子笛を撫でるように甲板の木目をなぞった。音のない空間に、彼女だけが聞く「欠けた音」がある。イオはその静かな集中を頼りにした。
甲板から降りて、彼らは修繕用の吊り足場を伝って膜に近づいた。藻膜は薄いが粘るような手触りで、そこへ触れるだけで小さな電流のような感覚が掌を伝う。イオは工具箱を膝に置き、蓋を軽く押し開ける。中の器具は彼にとって手慣れた重量だ。だがいつもの場所に、巻き直されて平らに収まった赤い糸がある。先端を指で抑えると、糸は微かに鼓動するかのように暖かかった。
「継ぎ目を読む」彼は声に出さず、自分の目の奥から光の線を引き出す。金色の線が現れ、膜の繊維の走りを追っていく。既知の織り目は連続して滑らかだが、中心へ近づくほどに線は収束し、紫色の脈が端に出始める。脈は揺れ、薄い音を伴って広がる。触った箇所から応力が移動してゆく感触が、針の刺さる場所を指し示した。
彼は最初の糸目を留めた。小さな補修針をとり、繊維の痛んだ端を合わせる。針先が通った瞬間、彼の視界のどこかで別の線が跳ねた。外側の小さな縫い目が、彼の縫い合わせの分だけ緩みを見せる。紫色の脈がゆっくりと広がり、初めてイオはその感覚を胸の底で理解した――修理は、ここでは単なる局所治療ではない。継ぎ目に手を入れれば、どこか別の場所が代わりに重さを負うのだ。
「それで、何だって?」バロが覗き込む。彼は機械の理屈よりも結果を知りたがる。イオは口を噤んだ。言葉は彼の手を遅らせる。彼は針を動かし、金具を確実に噛ませる。だが金具がはまるたびに、どこか遠い場所の線が紫に染まり、緊張が移動するのが見えた。
「前に聞いた話だと、中央は重みを受け止める設計だったって」リュネが低く言った。彼女の声は膜の震えと調和して舌先に残る。「だけどここは、集めるようになっている。まるで……」
まるで一箇所へ絞られているかのように。イオは言葉を飲み込む。彼の継ぎ目読みは、触った構造しか完全には示さない。だが、これまでも触れた膜の連続を追うだけで、全体の流れが見えてきた。四方に分散するはずの張力は、直線的な道筋へと折り畳まれ、中心の尖った機構へと導かれている。そこには不自然な赤い補強線が幾度も巻かれていて、乾いた金属が縫い針の口のように開いていた。
「誰がこんなふうにした?」バロが怒りを滲ませる。「これじゃあ、中央が壊れれば全部だ!」
彼らがそこに立つと、遠方から滑るように艦が近づいてきた。上甲板には黒い軍旗が翻り、指揮官らしき人影が立っている。ゼグだ。彼の服は重く、顔は日の光に晒されて硬い彫塑のようだった。彼は近づくと、息を切らすでもなく、静かにイオたちを見下ろした。
「状況は見ての通りだ」ゼグの声は鋭い。風に押された言葉は膜に反射し、微かな金属音として振動した。「ここを放置すれば、主力艦が吹き飛ぶ。閉じるしかない。今すぐにでも」
ゼグの視線は中心の機構へと落ちる。そこには、幾重にも縫われた赤い線が張られ、古い糸の繰り返しが規則的な円を描いていた。その一部に、赤糸と同じ繊維とおぼしき短い残滓が見える。イオは工具箱の中の赤い糸を指先で確かめた。糸の色も、質感も一致しているように感じられ、胸の奥がぎくりとした。だが彼はそれを口に出さなかった。話すことは、事情を動かすことになる。いまは手を動かすのみだ。
「留めろ。仮にでもいい。ここを閉じろ」ゼグは命令した。圧力の中に、期待と怖れが混じっている。「主力が落ちれば、死者はこの数の何倍にもなる」
イオは針を握ったまま唇を噛んだ。前世の現場が、喉を塞いだ。あの時も、彼は規則に従った。点検マニュアルの表に沿って、定められた手順で行った。現場の声より、文面を選んだ。結果、救えたはずの人を救えなかった。記憶は彼の胸に小さな火傷のように残り、それが今、同じ形で蘇る。
「一時的に閉じる」イオは答えた。彼の声はか細く、しかし固かった。彼は自分が誰よりも正確に針を通せることを知っていた。継ぎ目読みは局所の最適点を示す。ただし、その代償が来る。彼は既に何度か能力を使い、失った記憶の断片を繋ごうとするたびに、何かを手放してきた。今回は、もっと大きな代償になるかもしれない。だが目の前の艦隊の灯りは揺らいでいる。選択は迫っていた。
彼は針と糸を取り出し、膜の裂け目に沿って何カ所かを素早く縫い閉じた。継ぎ目読みが示す点を拾い、糸目を滑らせていく。金色の線が収束し、点線が繋がり、縫い目は一つの絵として現れた。だが縫い目が閉じるたびに、外側の一つが紫色に染まり、ぴきりと小さな裂けが走った。音はしなかった。だがリュネが一度口を開け、低い音を漏らすと、その音がまるで膜の波長を整えるかのように脈拍を和らげた。
最後の一針を縫い終えた瞬間、何かが胸の奥で切れた。イオは世界が一瞬遠のくのを感じた。思い出の糸が一本、手の中から滑り落ちていくようだった。彼は驚いて目を閉じる。頭のなかにあった小さな映像が曇り、そして消えた。
母の顔が、――消えた。
それは最初に消えた断片だった。これまで、彼は母の声の語尾を忘れていた。台所で油を加える時の小さな擬音、眠る前の背中にかける布の重さ。その断面は既にうろこ状に欠けていた。だが今日まで、母が笑った時の目の皺や、額の傷跡、頬の斑点の位置といった具体的な顔立ちだけは、かろうじて残っていた。今まではそれを思い出すたびに、胸が柔らかくなり、前世の名前が少しだけ温かさを取り戻すように感じていた。
いま、彼が焦って顔を思い出そうとしても、そこには空白があった。顔の輪郭を追う指先に触れるのは冷たい空洞だ。匂いの記憶が波のように寄せては返す。油と土の混ざった匂い。だが視界には何もない。名前を呼べば、音は喉から出るが、誰に向けられているのかがわからない。彼は急いで工具箱の中を探ったが、そこに写真や小さな物はなかった。母の面影を留めるものは、既に彼の中の記憶だけだった。今それが抜かれたのだ。
「イオ?」リュネの声が、彼を今に戻す。彼は膝をつき、指先で膜を押さえた。手の震えを抑える。ゼグは何も言わなかったが、眼差しは鋭かった。彼の中にも、また別の重さがあるのをイオは感じた。命令を続ける者の背負うもの――それは、犠牲を許容する冷たさかもしれないし、誰かを守るための重い守り方かもしれない。どちらにして