巨人都市の救命士 第9話「第8章」
下層区画の空気は、上層のそれとは別物だった。煤の混じった湿り気が低く漂い、呼吸膜の裂け目から吹き下ろす風が、埃の粒を帯状に踊らせる。四人は通路の分岐で立ち止まり、互いに小さく頷いた。外向きの灯を抱えた群れが、薄い霧の中で揺れる。声が重なり、息遣いが交差していた。
下層区画の空気は、上層のそれとは別物だった。煤の混じった湿り気が低く漂い、呼吸膜の裂け目から吹き下ろす風が、埃の粒を帯状に踊らせる。四人は通路の分岐で立ち止まり、互いに小さく頷いた。外向きの灯を抱えた群れが、薄い霧の中で揺れる。声が重なり、息遣いが交差していた。
「ここでいい。代表を探す」セネが言い、紙束を抱え直す。彼の手の甲には、まだ禁書の文字の痕が赤く残っている。そこを触るたびに、胸の中の決意が熱を帯びるのを彼は知っていた。
代表たちは予想よりも早く見つかった。古い倉庫を仕立てた集会所の前に、泥のついた服を掛けた中年の女と、年老いた骨細の男、二人の若者が立っていた。中年女は眉を寄せて四人を見たが、セネが紙を広げ、禁書の写しを見せると顔色が変わった。紙の上の文字の組み合わせは、評議会が教えなかった別の歴史の切片を示していた。女の眼に、最初に恐怖ではなく驚きが立ち上った。
「あなたたち……評議会の者か」女が低く囁く。問いは非難に近かったが、セネは首を振った。「違う。それは私たちが明かすものだ。まずは聞いてほしい。選ぶ機会を作るために、情報を。どちらでも構わない、ただ選べるようにしたい」
群衆が集まる。口々に「どういうことだ」「寝ている人を起こすって何だ」と声が上がる。エルドは胸の中で手のひらを握りしめた。いつもの現場なら、傷者の痛みと脈を優先して自らの判断で動く。だが今は違った。ここで彼らが自由に選べなければ、救命は意味を為さないのだと、序章で聞いたあの細い声が繰り返す。
ミナは前に出た。声はまだ戻っていないが、手に持った小さな木板に鉛筆を立て、ゆっくりと紙面に詩の形を描き始める。短い線から音のない韻ができあがり、それは不思議と人々の胸の波紋を揺らす。ミナの聴診詩は、声を失う代わりに他者の恐怖の在りかを拾う――だが彼女が嘘を聞けば、自分の声を完全に奪われる危険もある。眼差しに決意が宿るのを見ると、誰も彼女を止められなかった。
「私のやり方で聞きます」ミナは短く書いた。「嘘は言わないで。真実だけを。どちらを選ぶか、自分で決めて」
群衆の中で、最初の声が上がる。年老いた男が口を開き、ゆっくりと自分の隣家のことを話し始めた。眠る者の傍で夜を明かした日々、子どもの寝顔を見下ろす得体の知れない安堵。それと同時に、目を閉じたまま年を取らせることへの後ろめたさ。男の息のひとつひとつを、ミナは紙の線として捉え、詩へと押し出した。周りの者たちの表情が揺れる。自分の恐怖が言葉にされると、それを抱えていた重みが一瞬軽くなるのだ。
だが、全員がその重みを下ろせるわけではない。若い女が叫ぶように言った。「私の妹がいる。起こしてほしい! 子どもは小さい、外で生きられるか分からない!」声は震え、熱がある。ミナの指先が一瞬止まる。紙に浮かぶ線がぐらつく。周囲の誰かが詰まらせた真偽を頼りにするのを、彼女は恐れていた。
その瞬間、群衆の中で小さな喧嘩が起きた。パンを抱えた男が「待て、うちも二人いるんだ」と割り込み、言葉がぶつかり合う。誰かが不安から嘘をついてしまったのかもしれない。ミナの筆先が急に止まり、肌の裏に冷たいしこりが走る。――声が、引き剥がされるように消えた。口元は動いているが、音が出ない。彼女が顔を上げると、目に涙を溜めていた。それは後退ではなく、償いの痛みのように見えた。
沈黙が落ちた。だが不思議なことに、沈黙の中で人々は自分の胸と向き合い始める。ミナの無音の詩は、逆説的に誰かを静かにさせ、言葉にならぬ感情を露わにした。エルドはその様子を見て、初めて胸の奥に新しい基準が生まれるのを感じた。救命は、彼が独断で決めるものではない。個々人の選択を引き出す作業こそが、彼らの今の仕事だ。
「皆で決める」ガウが言った。彼の声は、ここ数日で一番落ち着いていた。手には小さな骨材の模型があり、それを指先で回しながら説明を始める。「肺膜の裂け目は治す。けれど、時間がかかる。下層の者たちをまず外に出すためには、骨柱を仮に迂回する路を通す必要がある。それは僕の仕事だ。だが、僕一人では無理だ。手を貸してくれれば、もっと多く出せる」
ガウの言葉に、小さなざわめきが起きる。彼の手つきには職人としての確信があり、模型に刻まれた継ぎ目の説明は分かりやすかった。人々は自分の手で道を作ることを理解し始める。外へ出ることと、ここに残ること。そのどちらも尊重するために、肉体的な道筋が必要だ。
代表の女が唇を噛んだ。「下の者たちを出す手順はどうするのか」彼女は尋ねる。声は中立を装っているが、瞳の端には涙が光る。判断は簡単ではない。外へ出ると、外界の危険が待ち受けている。残ると、薬液の影響と年を取るのを続けねばならない。セネは紙を広げ、禁書から抜き出した図面を指差した。心臓区画へ至る古い通路と、肺膜を部分的に塞ぐための旧救護班の工法。紙の紋章の端に、白い手袋の一片が印刷されていた。代表の女がその一片を凝視し、はじめてその意味を理解したように息を飲む。
「選ぶのは皆さんです」エルドはゆっくりと言った。言葉はいつものように確定的ではない。彼は自分の胸の奥にある前世の判断基準を抑え込み、今ここにいる人々の声を優先することを選んだ。「僕は治療の優先順位を示す。だが最後に決めるのは、あなたたち自身だ。出たい者が出られるよう、ガウが道を作る。僕たちはそれを手伝う。セネは記録を配る。ミナは、声が戻らぬ間は詩で恐怖を受け止める」
その言葉に、少しの静寂があった。やがて小さな手が上がる。続いて別の手が、また別の声が「残る」と言う。「余り物のように扱われたくない」「寝ている者はここで安全だと言われている」――どれも切実な理由だった。エルドはその一つ一つを聞き取った。彼の脈見は、今は出さない。人々が自らの答えを導く時間が、まず必要だと判断したからだ。
だが、時間は残酷だった。裂け目の痕は夜が深くなるほど微かに広がり、上層からは断続的に救援の足音と薬液補給の音が降りてきた。評議会が事態をどう受け止めるかは未定であり、一夜にして決着をつけることを要求してくる可能性がある。ガウは顔を強張らせ、工具箱を開いた。
「こうする」彼は骨材を取り出し、倉庫の柱に組み付ける小さな鋼のリングを示した。「ここに仮の橋を架ける。骨柱の外側を辿れば、疎開路を二列に作れる。人を順に出し、傷病者は先に。骨材の継ぎ目は風琴のように伸縮する。この部分は僕が担当する。だけど、穴を塞ぎに行く人手も必要だ。誰が出るか、ここにいる人たちの合意で決めてほしい」
若者たちが早速手を挙げた。作業は荒いが効率的で、工具が一斉に鳴り始める。金属と骨の摩擦音が、胸腔の奥で同期するように脈打ち、周囲の灯が揺れる。ガウの指先は驚くほど器用に動き、継ぎ目を押さえ、綱を掛け、骨材を編む。同時に、彼の顔には一瞬だけ寂しさが差した。外へ出る夢は後回しになり、今は仲間のための道を編む職人に戻っている。エルドはその背中を見ながら、ガウの選択を尊重した。誰かの夢を犠牲にしているのではなく、別の形で夢を守る道もあるのだと、彼は思った。
作業は昼夜の区別を失って流れた。セネは禁書の写しを人々に配り、古い図面の説明