野原の工房の木工職人はほどよく働く 第6話「第5章」
朝の薄氷が工房の草葉を張らせる頃、朔は小さなラジオをかけたまま作業台に腰を下ろしていた。木屑の香りと、まだ温もりの残るヤスリ台の感触。遠くで、重機のライトが夜明けの霧に刺していたことを思い出し、胸がざわつく。昨夜の重機の音は耳に残り、胸の中で乾いた針がくるくる回っているようだった。
朝の薄氷が工房の草葉を張らせる頃、朔は小さなラジオをかけたまま作業台に腰を下ろしていた。木屑の香りと、まだ温もりの残るヤスリ台の感触。遠くで、重機のライトが夜明けの霧に刺していたことを思い出し、胸がざわつく。昨夜の重機の音は耳に残り、胸の中で乾いた針がくるくる回っているようだった。
「おはよう、朔さん」
戸口から足音が近づく。ミチルの帽子のつばには凍った露が小さく光り、後ろに何人かの若者が並んでいた。顔ぶれに知らない顔も混じる。彼らは昨日、計画に参加する若者を呼ぶとミチルが言っていたグループだった。
「早いな。眠れたかい?」
「うん、アイデアが湧いたから。守り方を変えるっていうか、守るための道具を作るんだよ」
ミチルは息を弾ませ、手に紙を握っていた。紙には簡単なスケッチが走り書きされている。守り方──計画に対してただ看板を立てて叫ぶだけではなく、実際にそこに立ち、人が続けて暮らせるようにするための「場」を作る。ミチルの目はいつもの軽さの裏に、決意の灰が灯っていた。
最初に頼まれたのは、見張り台用の簡易スツール一脚だった。夜を越して長時間座ると腰がつらくなると若者の一人、春斗が言う。朔は手を動かした。ノミが木と合わさるときの低い音が、作業場に低く降る。冬の光が板目を撫で、その線に小さな虹が差した。
朔が仕上げにオイルを刷り込むと、春斗がそっと腰を下ろした。座面に彼の体重が伝わり、朔の掌にひんやりと温度が戻る。だがその瞬間、いつもの小さな出来事が起きる。朔の視界の片隅に、座面の木目を伝う薄い灰色の影が一回だけふっと走った。まるで使い古された手の線が板目に重なって見えたような、それは人の疲労を一度だけ「見せる」――朔の力だった。
「……疲れてるな」
春斗は肩をすくめた。表向きは笑っているが、目が泳ぐ。「夜のバイト二つ掛け持ちだ。朝は農作業手伝って、そのまま工事の方で…なんでもないよ。守るためなら……」
朔は黙ってスツールの角を指で撫でた。見えたものは彼の言葉に裏打ちされていた。疲労が木目の一本に沿って滲んでいた。朔の力は明瞭に、「ここで座る人がどれほど消耗しているか」を示す。だがその力は、使い手の心にむやみに介入するわけではない。一度見せるだけで、情報は消える。春斗が何を選ぶかは、その人のものだ。
「無理はするな」と朔は静かに言った。「体が持たないと、続けたくても続けられない」
春斗はしばらく黙り、やがて小さく笑った。「ありがとう。ちゃんと考えてみる」
それが小さな勝利のように感じられた。だが午前が進むにつれて状況は変わる。ミチルは近所に声をかけ、余った材料でさらに三脚のスツールと見張り用の簡易テーブル、携帯用の木製携帯箱を頼んだ。若者たちが「夜勤の合間に手伝える」と言って工房に集まり、朔は次々に注文を受けた。
「みんな座れるように、持ち運べるように」とミチルは腕を組み、設計を指示した。朔はいつも通り丁寧にやりたかった。だが若者たちの時間は限られている。依頼は急を要し、ミチルの呼吸は早い。朔は心のどこかで、力を石のように温存しておく必要があると知っていた――だがその朝、彼は自分の限界を試すように仕事を増やした。
一脚、また一脚。朔がオイルを塗るたびに、木目に一回だけ疲労の線が走る。最初ははっきりと、次第に細く短くなった。三脚目を仕上げるとき、朔はふっとその光が消えるのを感じた。目の端に残るはずの薄い影が、そこに無い。
「消えた?」ミチルが肩越しに訊いた。朔は首を振る。言葉にできない不快が胸に沈みる。力が急激に弱ったとき、朔の体はそれと引き換えに眠気を拒む。彼は以前にもこの兆候を知っていた。力を「急ぎすぎて」使ったとき、不可視の代償が即座に襲う――深い眠りが訪れず、身体は休めなくなる。
しかし今日は待てなかった。若者たちの顔を見れば、彼らがどれほど時間を切り詰め、疲弊しているかがわかる。朔は自分を押し殺して、もう一つ椅子を仕上げた。その瞬間、手元がふらつき、ノコの刃が短く滑った。利き手の親指に熱い痛みが走り、木の粉が血を滲ませる。小さな切り傷だった。若者の一人が反射的にタオルを差し出し、朔はそれを受け取った。
「医務室に行こう」とミチルが言った。朔は笑おうとしたが、声がかすれた。「大丈夫。押さえられるから」
しかし、その日、朔は夜になっても眠れなかった。布団に横になっても、頭の中はカンナの薄削りのように細かく削られる思考が続く。耳鳴りが木屑の音と混じり、ぼんやりと過去の注文や明日の材料が重なって消えない。目を閉じれば、重機のライトがまた遠くに刺す。身体は疲れているのに、眠れない。代償が来たのだ。
翌日、工房の前で春斗が転んだ。座面の高い椅子に座ってから、バランスを崩して足をついた衝撃で膝を打ったらしい。朔の作った椅子の一脚だけ、座面の一辺がわずかに低かった。朝の慌ただしさと、朔の朦朧とした目が交差した結果だ。春斗は芝生に座り込み、膝から血と泥が混じった。
「ごめん、朔さん……」春斗の声は震えていた。朔は膝を抱えた彼の前にしゃがみ込み、手当てを試みるが、指先は冷たく震える。力の代償で夜に眠れないことが、集中力を奪っている。
そのときミチルが前に出て、布を取り、若者たちに指示を出した。朔はその様子を見て、自分がいなくても事態が回ることに、どうしようもない安堵と深い罪悪を同時に感じた。
「春斗、立てる?」ミチルが淡々と聞く。春斗は黙ってうなずき、残りの若者たちが彼を支えながらゆっくりと立ち上がった。朔の作った椅子を一つ脇によけると、誰かが代わりに草の上に敷物を広げた。ミチルは朔の方へ振り向き、ふっと目を細めた。
「朔さん、今日は無理しないで。あなたがやらなくても、私たちでできることがある」
その言葉は励ましでもあり、割り切れない責めでもあった。朔は自分の限界を見誤ったことで若者を危険に晒した。力を急いで使ったから、彼はこの小さな事故を招いた。言い訳の余地はない。
午後になって、町に一台の車が入ってきた。ネイビーのジャンパーに白い社章をつけた男が降りてきて、工房の前で立ち止まった。年は四十を越えているだろう。顔には工事現場で焼けたような浅い皺が横に走っている。彼は名刺を差し出し、自己紹介をする。
「川原といいます。今回の造成計画の現場監督です。朔さん、こちらで地域に何か協力できることがあればと思いまして」
川原は丁寧だが、どこか作業着の匂いが抜けない。朔は応対しながら、彼の手がかすかに震えているのに気づいた。監督といえど、この仕事を抱える事情は人それぞれだ。
「私たちはこの土地を整備して、町のためになる施設を作るつもりです。可能ならば、地元の職人さんにも協力していただきたい。朔さんのような腕のある方がいれば、工法のアドバイスや、ワークショップの開催など、きっと両得になると考えています」
ミチルがすぐに顔を上げた。言葉の端にある交換条件を読む。仕事を与える代わりに、土地と生活の在り方が変わる。川原は続ける。
「もちろん、補償や雇用の話はしっかりします。分断ではなく共生を目指したいんです。朔さんの工房ややり方を活かす形で協力してもらえれば、若い人