野原の工房の木工職人はほどよく働く 第29話「巻末特別章」
朝の光はまだ野原の縁に留まって、工房のガラス戸に斜めの筋を描いていた。朔はいつものように小さな研ぎ台に向かい、古い鉋の刃を滑らせる。刃の金属が木の油を吸って光を返す音、木屑が薄く舞って鼻先にふわりと甘い樹液の香りが広がる。掌に伝わる振動と、刃先が木目をなぞる抵抗の細かな変化に朔の意識は集中している。
朝の光はまだ野原の縁に留まって、工房のガラス戸に斜めの筋を描いていた。朔はいつものように小さな研ぎ台に向かい、古い鉋の刃を滑らせる。刃の金属が木の油を吸って光を返す音、木屑が薄く舞って鼻先にふわりと甘い樹液の香りが広がる。掌に伝わる振動と、刃先が木目をなぞる抵抗の細かな変化に朔の意識は集中している。
「おはよう、朔さん。忙しそうだね」
戸口の方から声がして、常田が運んだ籠を朔の作業台の端に下ろす。中には曲がった門扉の金具、壊れかけの箒の柄、磨きの必要な木製の椅子の脚が入っている。籠の布越しに漂う埃と橙色の箱の匂いが朝の冷気を温めた。
「おはよう。今日はひとつずつだよ、常田さん。急ぐと良い仕事にならないから」
朔が一つずつ品を取り出し、丁寧に布で埃を払ってから手入れを始めると、木目の奥から淡い光が滲んだ。椅子を抱えたまま近所の老婦人、竹井さんが戸口に顔を出し、椅子に腰をかけると――朔の前に、細い糸のような影がふっと浮かび上がった。影は淡い灰色で、歳月の重さを帯びて揺れる。彼女の肩のあたりから、家事や介護に縛られてきた日々の疲れが一度だけ輪郭を成して見えた。
竹井さんはそれに気づいて目を細める。「あら……こんなふうに見えるのね。びっくりしたわ」
朔は鉋を休めてにこりと笑った。「見えるのは一度だけなんです。だから、話を聞かせてほしい」
二人はゆっくりと会話を交わし、椅子はしばらくしてやわらかい座り心地を取り戻した。竹井さんが帰ると、倉庫の方から若い声がした。ミチルだ。昨夜の夜更かしが瞼の下に影を落としているが、足取りは速い。
「朔さん、お願いがあるの。納屋の扉が壊れちゃって、明日には直さないと作業ができないって──調査の人たちが来る前に、みんなで片付けておきたいの」
「明日、それで全員の頼みを聞いて回ってほしい、と?」
ミチルの顔がこわばる。彼女は俯いてから、自分でも気づかない大きさの溜息を吐いた。「うん。でも、みんな忙しいし、朔さんの手はほかとは違うから……」
朔は手を止め、器用に布を絞ってから答えた。「手入れはできる。けど、急いでやると、僕の影響は消える。代わりに、僕が眠れなくなるんだ」
言葉は工房の空気を静めた。床の合板が軋む音だけが、しばらく響く。常田が籠の中の金具を指で觸れてから言った。「代償って……前にも聞いたよな。無理すると、朔さんは寝られなくなるってやつか」
「そうです。寝られないと、身体が壊れるんじゃなくて、次の日に同じだけの手入れができなくなる。手を抜いて誰かを救うのとは違うんです。だから、僕が全部やるのは間違いだって思う」
ミチルの唇が震えた。「でも、みんな不安なんだ。調査の人たちが来るって聞いてから、夜も眠れないって言う人が増えた。どうしていいか分からないって」
それを聞いて朔の胸の奥がぎゅっとする。誰かの眠れぬ夜を見せられると、手が動く。だが同時に、彼は自分の約束を思い出す──急いで力を行使すれば、力は消え、彼自身が休めなくなる。彼は深呼吸をして、椅子の脚を持ち上げ、じっくりと木屑を払った。光はきれいに流れ、竹井さんの疲労は静かに消えた。
午前中は来客が絶えなかった。誰かの戸が軋む音、遠くで重機の試運転が低く鳴る。朔は一つずつ依頼を受け、手入れしてはその人の一度の疲れを見た。少年の肩からは学校と家の間で引き裂かれるような疲労が、若い父の背からは仕事と育児の狭間の濃い影が、それぞれ淡い線のように浮かんだ。朔はそれらを受け止めながら、可能な範囲で助言をし、椅子や箒を渡した。人々は少しずつ安心して去っていく。
午後になって、声が一度に集まった。納屋の扉が壊れた家、仕事道具を直してほしいという畑の手、子供の学用品を繕ってほしいという母親──総数は十を超えた。朔は棚から刃を取り、短く息を吐いてから言った。
「今日は時間がない。けど、全部は無理だ。僕に任せる人は一列に並んでくれ。順番に、じっくりやる」
誰も文句は言わなかった。行列はできたが、列に並ぶ顔には不安が滲む。朔は最初の一人に膝をつき、手入れを始める。いつもの通り、手の動きは正確で、木目が応える。だが三人目を触ったあたりで、胸の奥に微かな違和感が走った。視界の隅が少しだけ鈍り、刃先の反応が遅れる。時間の測り方が変わったように感じた。
「朔さん、大丈夫?」
ミチルが顔を覗き込む。朔は短く首を振った。「大丈夫。ちょっと……ただの疲れだ」
だが彼は知っていた。早く済ませようと自分に鞭を打った瞬間、力は薄れていく。最後の一人のために鉋を速く動かしたとき、木目の光が一瞬途切れた。眩しい白色が消え、手の中の木が普段よりざらついて感じられた。朔の胸に冷たい空洞が広がる。力が消えた。
刃を置いた瞬間、朔の身体はどっと重くなり、目の奥が冴え渡った。不眠の前触れが内側から広がる。首筋が熱く、胸がざわつき、目は覚醒しているのに体が沈もうとする。彼はその場に座り込み、無意識にテーブルの角を握った。指先に小さな震えが残る。
「朔さん!」
常田が駆け寄り、肩に手を掛ける。「これ以上無理するな。俺たちでやる。お前が倒れたら困る」
だが朔は首を振った。「違う。今、僕が寝られなくなるだけじゃない。次の日に、同じだけ手入れができない。みんなの一度の光を奪いたくないんだ」
ミチルがぐっと唇を噛んだ。彼女の目が固まる。周りの人たちは戸惑い、空気が一瞬凍ったようになる。朔の力は、見せるだけではなく、相手に「休むこと」を一つだけ許すものだった。彼が代わりに全てを担えば、誰も休めなくなる。
その日の夕方、朔は工房の小窓から野原を見た。重機の輪郭が遠くに見える。夕陽が刈られた茎を金色に光らせ、風はまだ穏やかだ。朔は顔を洗い、冷たい茶を一口含んだ。眠気は来ない。夜の粒子が身体に張り付いて、彼は眠りを得られない予感に襲われた。代償が来たのだ。
眠れぬ夜は長かった。朔は座布団の上で何度も体勢を変え、工房の隅にある小さな手ぬぐいで額の汗を拭いた。月の光が床板に細い筋を落とし、遠くで犬が吠え、時おり車のライトが野原の縁を走る。何度か浅い意識が襲い、刃先の感覚が鮮明に戻った気がして、朔は光を求めて手を伸ばしたが、その度に無言の疲労が喉に引っかかり、夢とも現ともつかぬまま時間だけが過ぎる。
夜が更けるうちに、工房の戸が静かに開いた。ミチルが懐中電灯を一つ持って、そっと入ってくる。彼女の目に涙はないが、肩の力が抜けていて、それが一種の決意のようにも見える。
「朔さん、あのさ……今日、みんなで話したんだ。夕食のあとに、町の人たちが集まって、工房のことを話し合うって」
朔は声を振り絞って笑った。「俺が話すべきだろう?」
「違うよ。あなたはもう休んで。みんな、自分の生活のことを話すって。あなたの光を当ててもらうんじゃなくて、互いの言葉で分かち合うんだって」
ミチルが床に座る。懐中電灯の光が彼女の顔を柔らかく照らす。その目に、昼間の慌ただしさとは違う落ち着きが宿っていた。
「私たちでやる。朔さんがいなくても、この工房がここにある意味を、みんなで守る方法を作るんだ」
その言葉は朔の胸にしみた。眠れないことの苦さが、逆に静かな