野原の工房の木工職人はほどよく働く

野原の工房の木工職人はほどよく働く 第10話「第9章」

広場の空気は、冬の午前にしてはやけに薄く澄んでいた。開発計画を示すスクリーンが組まれ、白と鉄の匂いを帯びた機材が並ぶ。冷たい青い光が波のように映像を打ち返し、数値が幾つも踊っている──「生産率」「稼働率」「回転数」。群衆の半分は好奇心、残りは不安を薄く塗り込んで立っていた。

広場の空気は、冬の午前にしてはやけに薄く澄んでいた。開発計画を示すスクリーンが組まれ、白と鉄の匂いを帯びた機材が並ぶ。冷たい青い光が波のように映像を打ち返し、数値が幾つも踊っている──「生産率」「稼働率」「回転数」。群衆の半分は好奇心、残りは不安を薄く塗り込んで立っていた。

朔は工房から運んできた鍋を片手に、反対側で蒸気を立てる小さな釜を見た。煮え立つ湯気は焦げた煮豆の香りとともに白い筋を描き、彼の手入れした柄杓は軽く振るうだけで湯を掬い上げた。いつものリズムが胸の奥にあった。彼の手が、道具を「整える」たびに、ほんの一息だけ、誰かの疲れが形になる。今日はその形を、見せるつもりで来ていた。

壇上に立つのは計画側の担当、黒瀬と名乗る男だった。黒いスーツが太陽を反射し、声には数年分の慣れが混じる。「こちらが見本地区のデモグラフです。ほら、この若者の一ヶ月の成果を見てください」。彼は若者を指差した。短く刈った髪に、きれいな作業着。名は太一。見本地区から招待され、数値を示す“成功例”として呼ばれていた。太一はにこやかに手を振る。隣に置かれたタブレットの表示は鮮やかに彼の一日当たりの「パフォーマンス」曲線を見せ、拍手が二分ほど起こった。

「数字は綺麗に並ぶ。私たちは地域の産業をこうして活性化していきます」黒瀬の声は割れず、滑らかに会場を回る。だが、スクリーンの冷たさと、朔の湯気の温度との差が、空気に小さな溝を作っていた。

朔は太一と黒瀬の間に立ち、持っていた小さな木箱を取り出した。表面には朔が昨日まで磨いていた時のままの指の跡が残っている。彼は軽く箱をすべらせ、太一に渡した。「中身は何でもいい。これ、君に貸すよ」と言ってから、静かに刃物を取り出した。手入れした道具を使うと一瞬、朔の「あの力」が働く。木箱の木目が一瞬、薄い紋様を見せる──散った灰のような渦が一つ、箱の側面に生まれた。

太一はそれを見て、はっと息をのんだ。「これ、どうして——」誰もが目を凝らす。朔は低い声で言った。「君が積み上げてきた数字の裏にある、休めなかった夜だ。これを見て、自分で選べるか確かめてほしい」。彼の声は大きくないが、周囲はざわつく。

黒瀬はすぐに笑みを取り戻した。「演出ですね。感情に訴えるのは結構ですが、私たちは客観データで提案しています」。彼はタブレットを掲げ、太一の曲線が伸びるスライドを示した。「見てください、このひと月での生産増。短期の支援でここまで改善できます」。数字は白く、無慈悲に輝いていた。

太一は目を伏せ、小さな震えが掌に走った。朔は箱を指でなぞりながら、太一の顔色がうすくなるのを見た。彼はこの力を使う時、いつも慎重だ。手入れした道具や食材が、使う人の疲れを「一度だけ」見える形にする。見せられた人は、そこに記された暗さを自分のものとして認めるか拒むかを選ぶことができる。でも、彼は同時に、力の禁止と代償をよく知っていた。急ぎすぎて「役に立とう」と力を拡大しようとすると、力は消える。さらに悪いことに、その後は朔自身が休めなくなる。眠りは薄くなり、手は夜通し震え、刃は仕事中でも鈍る。使うごとに誰かを救えるとは限らない。だから彼は、誰に、いつ、その一回を使うかを選んできた。

今日の選択は、他より重い。太一を見ていると、朔の胸の奥に怒りでも同情でもない、重い責任感が沸き上がった。もし太一が自分の疲れを見つめ直せば、周囲の目も変わるかもしれない。だが、もし力が消えれば、次に現れる人々に何も見せられない。彼は息を吸い、ゆっくりと手を動かした。

木目の渦は次に、ふっと薄く光を帯びた。太一の目の前で、彼の背中に薄い灰色の影が浮かんだように見えた。彼は手を伸ばし、そこに触れる。触れた瞬間、太一の肩が、今まで見せてこなかった重みでぐっと落ちる。顔に刻まれた線が一層深くなった。群衆のざわめきが、静かに尖って聞こえる。

だが、その時、群衆の端で小さな声が上がった。「舞台設定だ!」若者の一人が叫び、携帯を構えた。黒瀬はにやりと笑い、すかさず太一の成果を強調する。「短期的なインセンティブでこれだけ上がる。見ての通りです」。場内に反論が生まれ、朔の示した「疲れ」は説明する言葉を得ないまま、情報のざわめきの中に埋もれようとした。

朔の胸に異変が走る。彼は息が浅くなり、手の先に冷たい感触が広がった。刃が震え、箱を支える掌が力を失いそうになる。使ったことで、力はまだそこにある。だが、群衆の反応に焦り、もっと見せようと駆け上がるような心持ちになった瞬間、黒い波が胸を押しつぶした。朔は深く息を吐いた。力が弱まる。それはいつものことだ。なのに、今回は違った。力が薄れると同時に、睡眠の糸が断たれる感触が彼を貫いた。夜、すぐに眠ることができない。胸の奥で小さな燃えかすのような熱がくすぶり続けた。彼はその場で冷や汗をかき、周りの声が遠くなるのを感じた。

「朔さん!」仲間の美代が駆け寄ってきた。指先に木屑がついている。彼女は朔の肩を抱いて支えた。「大丈夫? 脈が速いよ」。朔はぶんと首を振った。「平気だ。ちょっと、ただ……」言葉が続かなかった。疲れが、今や自分に襲いかかっている。彼は自分を止められなかった。太一の疲れを見せることに成功したとしても、代償は確実に返ってくる。

その間にも黒瀬は畳みかける。「見本地区の若者たちは数値で示された支援を受け、生活水準が向上しました。私たちは選択肢を広げるだけです」。男の声は切り札のようだった。データは、鈍い光を放って空気を切り裂く。だが、朔の見せた灰の渦は、数値の外側にあるものを示した。太一は額に手を当て、しばらく黙った。やがて小さな声で言った。「俺、自分が何を切り詰めてきたか、わかってたつもりだった。でも、見ちゃうと、変わるのかな……」太一は群衆を見やった。誰かの視線が彼を選んでいた。

会場が割れるような拍手をしたのは、賛成派の一部だった。彼らは既に数値の力を信じている。反対派は、今示された「疲れ」をどう扱うかで戸惑っていた。朔は足元に転がる木屑を見つめ、しばらく動けなかった。疲れが身体にまとわりつき、指先が痺れている。

そこへ、計画内部の女性、名は直(なお)が顔色を変えて近づいてきた。彼女は黒瀬の側で働いているらしく、開発資料の紙束を抱えていたが、目は何かを拒むような光を帯びていた。彼女は低い声で朔の耳元に囁いた。「彼らはね、見本地区で短期的に成果を上げた人にしか支援が回らない。しかも、一定の“休息度”以下に見えると給付が減る、って仕組みをテストしていたの──戻り値を数値化するために、休むことを抑制する設計が忍び込んでるのよ」。その言葉は針のように冷たかった。

朔の目が瞬間的に開く。直は続けた。「先週、アルバイトで来た若者が休めなくなって、体を壊した。私たちのデータは、短期的に数値を上げてくれる。けれど長期では壊れる。政府に出す報告書ではその『壊れ』をサンプル外にしている。問題になれば結論はこう、『再教育が必要』ってね」。直の声は震えていたが確かな事実を含んでいた。群衆の中で、ざわめきが一気に広がる。

朔は美代の手を握り返す。彼女の指の温度が、ふっと現実に戻す。太一はまだ木箱を握りし