港の魚市場の魚屋は帰る場所を作る

港の魚市場の魚屋は帰る場所を作る 第6話「第5章」

冷気と蒸気が混ざった匂いが、朝の市場を満たしていた。乾いた金属の匂い、氷が溶けるような湿り、そしてどこか焦げた匂い──配電が落ちた直後の空気だ。透は手にした包丁を、いつものように布で丁寧に拭いながら、背中の奥で誰かが鋭く息をしているのを感じていた。目の前では、半分動く発電機の振動が低く唸り、ところどころに点滅する赤いランプが静かに時間を刻んでいる。

冷気と蒸気が混ざった匂いが、朝の市場を満たしていた。乾いた金属の匂い、氷が溶けるような湿り、そしてどこか焦げた匂い──配電が落ちた直後の空気だ。透は手にした包丁を、いつものように布で丁寧に拭いながら、背中の奥で誰かが鋭く息をしているのを感じていた。目の前では、半分動く発電機の振動が低く唸り、ところどころに点滅する赤いランプが静かに時間を刻んでいる。

「電力は二系統しか確保できない。どこを重点にする?」健二が唇を噛み、指差す。彼の手は油で黒ずみ、爪の間に古い網糸が詰まっている。陸が配線を手繰り、花は小さな保冷箱の扉を閉めたり開けたりしていた。通路の向こうで、まどか婆さんが膝をついて小さな発泡スチロール箱に氷を詰めている。目は腫れていて、動きは遅かった。

透は自分の包丁の柄をそっと握りしめた。刃を研ぎ、油を引いた――力を使えるのは、手入れした道具や食材だけだ。透の能力は、そういったものを介して、使う人の“疲れ”を一度だけ見える形にする。見えるのは言葉にできない重みや、声の裏側に隠れた疲弊。だがそれは一度限りで、使いすぎると力は消える。さらに、急いで「役に立とう」と自分を駆り立てるほど、その代償は厳しく、透自身が休めなくなる──それがここ数日の実感だった。

「まず誰を見る?」花が訊く。彼女の呼吸には、昨夜ほとんど眠れていない不安が混ざっていた。

透は包丁をまどかの近くに置き、柄に軽く手を触れさせた。包丁の冷たさが掌を通り、刃元からふうっと白い霧のようなものが立ち上がる。まどかの指先に沿って、霧が筋となって伸びた。ゆっくり──筋は広がり、まどかの背中から膝、肩に向かって細い光の線が流れるように見えた。線は深く、薄い亀裂のようにも、循環が止まりかけた水路にも見える。

「……長いね」健二が漏らす。まどかは市場の古株で、日々を細く長く支えてきた。線は過去の疲労を示していた。透はそれを見て、胸がぎゅっと締めつけられた。

次に、宮部のところへ向かった。彼は大型の業務用冷蔵庫を抱える店の若い代表だ。背は高く、顔は硬い。透が包丁を差し向けると、霧は一瞬燃えるように明るく跳ねた。宮部の肩の周りで光が短く点滅し、そこから鋭い矢のように掌へ走る。彼は今を乗り越えるために全力を使っている──外側に見えるのは鋭さと怒り、内部の疲労は「急性」の炎のようだった。

「宮部さんは、取引先の冷凍便が今日来る。逃したら一発で信用が飛ぶ」陸が言った。市場の外部との契約が絡むと、数十万の損失にもなる。行政は数字を持ち出してくるだろう。そこを失えば、規則違反を理由に締め出しを進める口実を与えてしまう。

「何人かは、庇護してる人を救えるだけでいいかもしれない」花が呟く。彼女はいつも、効率よりも一人一人の顔を見たがる。

透は目を閉じ、包丁の冷たさを確かめる。能力は"一度だけ"だ。誰に見せるかで、救えるものと救えないものが決まる。市場に残るのは、金銭的に重要な店か、地域に不可欠な小さな店か。選択の重みが、透の胸を押す。

「二系統。俺らで分けてつなごう。だが、手動で冷却を補える場所もある」健二が即座に判断した。彼は工具箱を開け、手際よく配管を繋ぎ替え始める。陸も呼吸を整えて、重いバルブを回す。透は急いで何軒かを見て回るが、ことごとく人々の疲労が見え始める。若い手が震え、婆さんの目は白い膜がかかり、働き続ける夫の背中に黒い影が溜まっている。能力が出す“見えるもの”は一度の閲覧で消えない。透は慎重に使わなければならなかった。

だがその慎重さが、透の内側で揺れる。誰か一軒でも見落とせば、魚が無駄になり、誰かの生活が壊れる。彼は急ぎたくなった。そういう思いが力を蝕む。透は自分の手のひらに汗を感じ、呼吸が浅くなるのを確かめた。

「透、待って」花の声が鋭かった。透が次の扉を開けようとした指を、花が掴む。彼女の手は温かく、震えがあった。

「みんな、自分で判断して動いてる。一緒にやるんだ。透だけに頼るな」花の瞳は真剣だ。周りの人々が透の力を頼りにしすぎていることを、彼女は恐れていた。

透は深く息を吐いた。包丁をギュッと握り、ゆっくりと指先を離す。能力を全部の人に見せようとする衝動を抑える。代わりに、彼は健二と陸と花に、見えたことを伝えた。まどかの慢性的な消耗、宮部の急性の燃焼、そして若い配達員の極限状態。三人は自分の判断で動いた。

健二は発電機の騒音を増幅し、手動ポンプの出力を上げる。陸は宮部のところへ走り、冷凍便の受け入れ準備を手伝う。花はまどかの小さな箱に残った氷を分け、近くの若手と二人で交代制を作る。透は目に見える“疲れ”を一度ずつだけ確かめ、指示を出した。

その成果は確かなものだった。二軒の主要な冷蔵庫が予備電源に接続され、幾つかの小さな箱は氷と人手でしのげるようになった。蒸気の向こうで、赤いランプが一つ、二つと消えていく。小さな勝利だ。通路に座り込んだまどかが、かすれた声で笑った。「ありがとうよ、若ぇの。おかげで今日も魚が出せるわ」

だが、勝利は代償を伴った。透は作業の終わり、胸の奥に寒さとは違う、じんわりとした不快感を覚えた。体は動いているのに、どこかが切り替わらない感覚。筋肉は疲れているはずなのに、眠気が来ない。頭の中に市場の音が残り、まるでその場に止められたままのようだった。能力の使用を急いだわけではないつもりだったが、仲間を守るためにあちこちを駆け回った。――それが、力を消費させたのだと、透は理解した。

「透、大丈夫か?」健二が肩に手を置く。透は首を振った。体の芯で眠りのスイッチが押されない。横になると、胸が余計にざわつく。

そこへ、背広を着た女性が足早に入ってきた。名札には「加藤 里紗」。市の保健衛生課らしい。黒髪を一つにまとめ、目は冷たくも見えたが、その目の奥に複雑な陰影があるのを透は見逃さなかった。彼女は手帳を取り出し、状況を一目で整理すると、深く息を吐いた。

「今回の停電と配電ショートで、複数のブロックで安全基準を満たしていない箇所が確認されました。暫定的な営業停止も含め、行政として調査を進めます」その声は公務員らしく淡々としているが、言葉には明確な“結果”が含まれていた。

「営業停止だって? そんな一軒二軒で市場が終わるかもしれないんだぞ」宮部が反抗的に前へ出る。

「私は個人を叩くためにいるんじゃない。安全を担保するためよ」加藤は冷静に返す。「ただ、ここでの運営がこれからも続く保証はありません。設備改修の計画案を、外部の専門家と一緒に提案します。結果として、非効率と判断される区画は整理されるでしょう」

透はその言葉を聞いて、胃がぎゅっと縮むのを感じた。計画──効率化。数値で照らされた市場の未来。加藤の背負うものは、単なる書類だけではないらしかった。彼女は一瞬だけ目を逸らし、そして小さく、口を噤んだ。

「あなたは、ここで育ったの?」透が訊ねた。問いは唐突だったが、加藤は一瞬驚いた表情を見せた。

「あの……ええ。子どものころ、隣町の市場が火事で一夜にして消えたのを見て、大勢の人が職を失った。それを忘れられなくて」加藤の声が、硬い公務員の仮面を剥がす。肩に力が入らない、疲れた音が混ざった。