港の魚市場の魚屋は帰る場所を作る

港の魚市場の魚屋は帰る場所を作る 第5話「第4章」

夜明け前の港は、昼間とは別の生き物だった。波の低い音が岸壁に吸い込まれ、冷えた空気に魚の匂いが鋭く立ち上る。透は長い影を引きずるようにして市場の通路を歩いた。店はほとんど閉まっていて、ところどころに残った発泡スチロール箱の蓋が風に音を立てる。指先の先に、昨夜の疲労がじんわり残っていた。目の奥の膜が乾いたようにざわつき、まぶたは重い。だが眠気はまとわりつくばかりで離れない。眠れない。眠ってはいけない、と思うと余計に目だけが冴えてくる。

夜明け前の港は、昼間とは別の生き物だった。波の低い音が岸壁に吸い込まれ、冷えた空気に魚の匂いが鋭く立ち上る。透は長い影を引きずるようにして市場の通路を歩いた。店はほとんど閉まっていて、ところどころに残った発泡スチロール箱の蓋が風に音を立てる。指先の先に、昨夜の疲労がじんわり残っていた。目の奥の膜が乾いたようにざわつき、まぶたは重い。だが眠気はまとわりつくばかりで離れない。眠れない。眠ってはいけない、と思うと余計に目だけが冴えてくる。

「またここにいるのか、透」

背後から声がした。海(うみ)だった。彼女は白いエプロンを羽織り、濡れた床を雑巾で拭きながらこちらを見た。朝の灯りが角ばった顔を浮かび上がらせる。海の目は眠たげではなかった。むしろ、透の疲労が見えるほどに冴えていた。

「眠れないんだ」

透は肩越しに答えた。言葉が喉で引っかかる。手の平を握ると、昨夜彼が慌てて力を使ったときと同じ感覚が走った。呼吸が浅くなり、指先に冷たい針先が刺すような圧があった。力が抜けたときの虚脱感は、ただの寝不足以上のものだった。身体が、自分の時間を奪われたと主張する。

海はぽんと透の背中を一度叩いた。痛みが神経を通り、現実感が戻る。

「あの見せ方は危なかった。やるなら順序を守れって言ったでしょ。公の場で疲れを――『見える化』するってことは、人の恥や弱さを晒すことにもなりかねない」

「分かってる。でも、分かってもらわなきゃ変わらない。あのまま黙ってたら、効率って名前のナイフがもっと市場を切り刻むんだ」

透の声にはいつもより強さが混じっていた。火のように燃える気持ちが、肉体の疲労に押しつぶされそうであることを自分でも知っている。だが、黙って見過ごすよりはまだましだと信じた。

海は透の手元に視線を落とす。透は無意識に、拭かれた包丁の柄に触れていた。昨夜、手早く研いだ包丁のひとつだ。透が手入れをした道具は、彼の力の媒介になる。皮膜のような手触りが指に残り、その道具を使う人の疲れを一度だけ「見える形」にする。だが、条件がある。手入れは急いではいけない。呼吸を合わせ、指先で素材と対話するように、時間をかけて整えること。短縮すると効果は薄れ、透自身の身体が代償を払う。

「どうするつもり?」海が尋ねる。雑巾から伝わる冷たさが、朝の匂いと混ざった。

透は包丁の柄をしっかり握りしめた。昨夜の失敗が胸の中でずしりと重い。彼の力は最後の一押しで消えた。力が消えると、透は眠りからも逃れられない。眠ってしまえば、何か大事なものを失ってしまう気がする。だから彼は眠らなかった。結果として、身体は悲鳴を上げ、目はただ空白のまま夜を越した。

「午前の競りが始まるまでに、きちんとやり直す。急がない。ね?」海の声に、透はうなずく。海は短く息をついた後、透のために熱いコーヒーを差し出した。香りが透の鼻腔をくすぐり、現実が少し戻る。握りしめた包丁の柄から、残留する冷たさが血管を伝った。

競り場に人が集まり始める。屋外の明かりが徐々に白くなるにつれて、魚屋たちの声も増えていく。大山庄一(おおやま しょういち)は年季の入った顔で腰かけ、足元の発泡箱を蹴って魚を並べ替えていた。彼の指は分厚く、爪にはいつも魚の鱗が染みついている。透は静かに近づき、先に準備した一振りの出刃包丁を大山の前にそっと差し出した。これは昨夜よりも時間をかけ、慎重に油を落とし、柄を整え、砥ぎ落としをしたものだった。透は呼吸を整え、指先の感触に意識を集中させる。心臓の高鳴りを抑えるように。

「え、これ、子が研いだのか?」

大山が包丁を手に取る。重みが手に伝わり、彼の顔が少し崩れた。だが、大山は笑いながらも包丁を受け取り、いつものように魚を捌き始めた。切れ味はいい。切った瞬間、立ち上る魚の脂の匂いに混じり、周囲の空気が変わった。包丁の切っ先から、薄い透明の帯がふわりと立ち上る。帯は大山の背中に沿って、誰にでも見える形で彼の疲れを伝えた。色は茜色、針のように細く、年輪のような線が何本も重なっている。見たものは、誰でもその線の元にある時間を感じ取った。

客たちが足を止めた。競り台の声が一瞬途切れ、荷車を引く若者の顔が曇る。海がすぐに横に来て、事態を見守る。大山は最初、びくりと肩をすくめたが、次第に笑みをこぼした。笑いには交ざる深い疲労の匂いがあったが、それでも彼は包丁をテキパキと動かし続けた。誰かがそっと水の入った缶を差し出す。若い店員が「休めよ」と言って大山の肩に手を置いた。市場の隅からは、朝食を半分にした小さな弁当が差し入れられた。見せることは、必ずしも恥ではないとその瞬間、誰かが感じた。

それは小さな勝利だった。透は胸が熱くなるのを感じた。海も目に涙をためていた。大山は包丁を置き、ぎこちなく笑いながら深呼吸した。

「すまん、みんな。晩がやっぱり長すぎてな。けど、ありがとな」

だが、その勝利には代償が伴った。包丁の効果が働いた時間は短かった。透の体内に残る疲労が、今やじわじわと疼きを増していくのを感じる。口の中が渇き、手足が痺れたように冷たくなる。海が透の肩に手を置いた。透はその感触で現実に引き戻される。

「もうやめろ。今日はそれで十分だ」

海の声は強かった。だが競り場の片隅で、黒いスーツを着た男がスマートフォンを片手に立っているのが目に入った。名札がついていた——藤堂誠(とうどう まこと)。市の再開発課に所属していると自己紹介された人物だ。透は藤堂の顔を見た。彼は一瞬で周囲を見回し、写真を数枚撮った。だが、彼の表情は直球の嫌悪や敵意ではなかった。むしろ、計算の皺と、どこか憂いのある眼差しが混ざっている。

藤堂はやがて透の前に歩み寄った。「これを見せられて、正直驚きました。効率の話は数字だけでしか語られないことが多い。こうして、具体的に人の暮らしが見えると、返って判断が難しくなる」と彼は言った。声は低く、穏やかで、だがどこかに確固たる意志があった。

透は躊躇いながらも状況を説明した。力のことは詳しく言わず、手入れをした道具が「見える化」のきっかけになったとだけ話す。藤堂は何枚かの写真を透の説明に重ね合わせ、黙って聞いた。彼の手が、スマートフォンの画面を指で撫でる。その仕草には、数字に換算する癖が見え隠れした。やがて藤堂はため息をついた。

「私の仕事は、効率という尺度で公共資源を割り振ることです。だが、そのために切り捨てられるものがあるのも知っている。私にも、妹が港町で小さな菓子店をやっていた。閉めたとき、彼女は…理由を訊かれても、数字しか返せなかった。私自身、その責任を問い続けられている」

藤堂の声からは、言い訳と痛みが混ざり合っている。効率を重視する立場にありながら、個々の事情を背負っている。彼は透の目を見て、言葉を続けた。「あなたたちの声を、形式ばった報告書以上に伝えたい。だが、上は結果を求める。証拠が必要だ。具体的な現場の、誰がどれだけ困っているのか——数字に落とせる形で示さないと、私の上司は動かない」

透は包丁の柄を強く握った。胸の奥で、二つの思いがぶつかる。一つは、露出することで人が助け合える可能性を見た喜び。もう一つは、その露出が