港の魚市場の魚屋は帰る場所を作る

港の魚市場の魚屋は帰る場所を作る 第3話「第2章」

潮の匂いが朝を割る。潮騒に混じって発泡スチロールの箱がぶつかる音、木製の台車の車輪がぎしぎしと軋む音、そして遠くでカモメが何かを争う鳴き声がする。透は台の上に広げた古い網に向かい、指先で麻糸を撫でるようにしながら結び目を探した。糸の先には塩と油と古い魚の匂いが染みついている。朝市はまだ眠りから完全に覚めてはいないが、動き始めたところだった。

潮の匂いが朝を割る。潮騒に混じって発泡スチロールの箱がぶつかる音、木製の台車の車輪がぎしぎしと軋む音、そして遠くでカモメが何かを争う鳴き声がする。透は台の上に広げた古い網に向かい、指先で麻糸を撫でるようにしながら結び目を探した。糸の先には塩と油と古い魚の匂いが染みついている。朝市はまだ眠りから完全に覚めてはいないが、動き始めたところだった。

「おはよう、透。今日も早いね」

海(みう)が濡れた手で籠の縁を拭きながら近づいてきた。背中には昨日捕れた小さめのさばが三尾、氷の上で光っている。彼女の声には昨夜までの疲労は含まれていない。いや、商売を生きる人間の疲れは声に出ないことが多い――顔の笑い、手のリズム、売価を決める目線。透はただうなずいて、網へ戻った。

「光代さんの網、今日中に直さないと船に出せないって言ってた。漁の班長が二隻分の網を点検するらしい。証明がいるってさ」

海は肌寒い朝の風を受けて息を吐く。透はそれを見て、結び目を一つ増やした。麻糸が指に食い込み、古い水かみの感触が伝わる。手入れとは、ものに残った風景を静かに解く作業だ。透は自分のやり方を持っている。手を動かしながら、触れたものの名残を一度だけ光のように映し出すことができる。ただしそれは、修理したその物に限られ、見えるのは「疲れ」だけ。さらには――急ぎすぎればその力は消え、自分が休めなくなる。

朝市のざわめきの中で、そうした規則は言葉にしなくとも自分の体に刻まれていた。透はその痛みを知っているから、今日もゆっくりと糸を通す。だが、その「ゆっくり」を壊すものが市場の端で声を張り上げていた。

「整備計画の説明会は八時半から!参加しない店は基準を満たさないと見なされます!」

張り出された札を指差すのは、場内組合の若い書記、堀口だった。彼の声は書類の重みと数字の正確さで冷たく響く。効率、基準、認証――幾つもの言葉が市の空気を硬くする。漁具の話もその渦に呑まれている。古い網は『非効率』と断じられ、更新や規格が求められる。

光代が来たのはその瞬間だった。彼女は肩に大きな網袋を掛け、左手は古い包帯で覆われていた。顔に刻まれた皺は多く、目は眠そうだが働く時には鋭くなる。透は口元で手を止め、糸を引いたまま彼女を迎えた。

「朝は早いね、光代さん。網、見せて」

光代は袋から網を取り出した。中央の一角が大きく裂けている。漁に出た直後に引っかけたのだろう。裂けた端の先に海藻が絡み、まだ湿っている。透は手を差し出したまま、いつものように深呼吸する。修理の前に、一度だけ――触れたものの先に見えるものがある。

指先が網に触れた瞬間、いつもの光がほのかに網目を透いて走った。薄い蒼白の光は真水のように透明で、糸の隙間を伝って光代の夜を映し出す。食卓の小さな卓上灯、数字の書かれた紙束、彼女が一人で抱えている薬の瓶、そして夜中にこっそり編み直す手。場面が網目の上で一度だけ揺れ、透はそれを見た。

それは、彼女の疲労の形だった。眠れぬ夜の数が糸を重くし、朝の動きに確かな鈍りを残している。透は息を呑み、光代の目を見る。彼女の顔には抵抗はない。見られることに慣れているわけではないが、嘘はなかった。

「そんなに……あるんだね」

透が囁くと、光代は口をわずかに開けた。言葉は出ない。代わりに彼女は網を差し出した。透は糸を取る。針先が穏やかな角度で糸を貫き、結びが一つずつ増えてゆく。網は直る。触ったものは一度だけ光を見せる。その光は本人にとっては息をつくことでもあり、他人にとっては理解の橋渡しでもある。

隣の台で種市が箱を並べながら、堀口の説明会の話を聞いている。彼は朝市では大黒柱のような人だ。歳は透よりも上で、皺の数だけ説得力がある。彼の口から、場全体を揺るがす言葉がぽつりと出た。

「あの計画はな。壊れたものを許さないんだ。検査で引っかかれば補助されるどころか、余計な負担を押しつけられる。金のある者だけが残って、あとは数が足りないと言われる。市場は、帰る場所じゃなくなるかもしれん」

透は糸を結び終えると、網を折り畳んで光代に返した。彼女の手は震えないが、指先の皮膚は薄くなっている。光を見せたことは、何かを変えられるかもしれないと透は思った。しかし、その瞬間、波のように自分の体に冷たい波動が走った。胸の奥が重く、まぶたの裏に小さな星が点滅する。力を使った報酬が、すぐに徴収され始める。

「大丈夫か、透?」

海が心配して近づく。透は笑ったつもりで首を振り、強くなかった。

「ちょっと眩暈が。休めばすぐ治るよ」

だがその瞬間、遠くの岸壁で管理者の声が通り過ぎた。

「基準に満たない漁具は来週の検査で排除されます。再申請は有料です。説明会で詳しく説明しますので必ず参加を――」

有料。透はその言葉に引っかかった。光代の網を直しながら見た光景は、彼女が払うべき薬代や商売のぎりぎりの帳面の山だった。もし場の基準が金銭でしか測れなくなれば、光代のような人々は追い詰められる。彼らが「帰る場所」と呼ぶ市場が、効率と成果という新しい尺度で測られてしまう。

透は光代に尋ねた。

「光代さん、説明会……出る?」

光代は答えをためらった。彼女は網を折りたたみ、包帯を直しながら唇を噛む。

「出るって言っても、私らの言い分は重視されんだろう。文句言えるだけの根拠がない。遅れても直すしかないって、いつだってそうだった」

彼女の言葉には諦めに近い諧調があった。透は自分の手に力を込めた。助けたい。だが先ほどの眩暈がしつこく胸を締めつける。力を急いで使えば、それは消える。しかも今回は組合側の決定が迫っている。急いては事を仕損じる。透は迷った。

海が口を挟む。

「光代さん、私、説明会行ってみる。あの堀口って人、数字のことしか見ないけど、聞かれたことは答えてくれるかもしれない。私らのやり方だって説明できるように、資料をまとめる。透、手伝ってくれない?」

透は一瞬体が軽くなるのを感じた。誰かが自分の代わりに声を出すこと。それは、透が最も望んでいたことだった。力は見せるだけで、解決そのものにはならない。人が選ぶこと、話し合うことが何より大事だ。だが同時に、透の胸には別の懸念が残る。もし説明会で数字と効率ばかりが要求されたら、網は「非効率」とされ、個々の疲れや背負いは無視される。

「いいよ、手伝う。だけど――」

透は言葉を切った。自分の体の不調を隠すためではない。光代に、海に、種市に与えることができるものは何かを考えていた。力は一つの可視化でしかない。だが場の選択を変えるのは、見せられたものをどう使うかにかかっている。

そのとき、堀口が広場に掲げられた大きな掲示板に新しい紙を貼った。透は近づいてそれを見た。白い紙には黒い活字でこう書かれていた。

「場内施設近代化計画説明会――参加店舗は効率化補助対象。未参加の場合、規格外漁具の使用制限あり」

文字は冷たく、選択の余地がほとんどないように見えた。下には日付と、問い合わせ先の電話番号。透は紙の端を指でなぞる。海はそれを見て固く口を結んだ。光代は網を肩に掛けたまま、紙から視線をそらした。

透は紙を見ると、心の中で小さな決意