港の魚市場の魚屋は帰る場所を作る 第2話「第1章」
夜明けの湿った風が港を撫でると、魚市場の屋根に布団を干したかのような海の匂いが立ち上がった。透はまだ薄暗い通路を素足で歩き、台の上に置いた布をめくると、銀色の刃が朝の光を一瞬だけ刃先に映した。指先で布を絞ると、潮と血と古い木の匂いが混じり合って鼻の奥を刺す。いつもの仕事の始まりだ。
夜明けの湿った風が港を撫でると、魚市場の屋根に布団を干したかのような海の匂いが立ち上がった。透はまだ薄暗い通路を素足で歩き、台の上に置いた布をめくると、銀色の刃が朝の光を一瞬だけ刃先に映した。指先で布を絞ると、潮と血と古い木の匂いが混じり合って鼻の奥を刺す。いつもの仕事の始まりだ。
「おはよう、透ちゃん。今日も頼むよ」
隣の屋台の静(しずか)が声をかける。彼女は養殖意識の高い小さな店を切り盛りしていて、透とは十年来の顔馴染みだ。透は軽く会釈をして、まな板に向かった。片手に出刃包丁、もう一方に布切れ。刃を布で磨くと、金属がこすれる低い音が波のリズムと合う。磨き終えると、いつもと同じ小さな出来事が起きる。
刃先の光がほんの少し濃く、滲むように揺れた。眼に見えるほどはっきりとはしないが、透はその揺らぎを知っていた——手入れした道具が、使う人の疲れを一度だけ見せる小さな現れ。真っ直ぐに刃から立ち上がる、薄い灰色の帯。そこに重なるのは、昨夜遅くまで船上で網を繕っていた船員の曲がった背中と、風にさらされた顔の陰影。目元に刻まれた眠気が透けるように見えた。
「……茂か」
透は隣の岸壁の方を見た。黒いジャケットに泥のついた長靴、年若く見えるが目の下にくっきりとした影がある。茂(しげる)は小型の運搬業をしており、よく午前の仕入れを手伝ってくれる。今日は市場の掲示板に張られた紙をじっと見つめ、ポケットの中で小さな白い封筒を揉んでいる。
掲示板には太い黒字で「再編検討区域 指定」とあり、その下に小さな説明と日付、公聴会の案内が埋め込まれていた。外の開発計画が近づいている証拠だ。昨日の夕方には市の職員らしき人間が何人か回って来て、補償金の話や移転案のパンフレットを配っていた。効率と数値で暮らしを換算する言葉が、市場の通路に静かに落ちていく。
「これ、いくらだった?」透は茂に近づきながら聞いた。刃を押える手に、まださっき見た疲労の余韻が残っている。
「――まだ。見せに来た人がいて、ええと……一枚で三十万、二枚で五十万って。俺のところは一枚でいいんだけどな」茂の声は濁っていた。封筒を握る指が白くなる。三十万はこの港町にとって大きな金額だ。だが、茂は漁師の家系で、固定の場所があることの意味を知っている。母親の介護、朝の船の手伝い、ここで交わす冗談の時間。金で換えられない何かがあるのを、彼自身も知っているらしい。
透は何も言わずに包丁を拭き、茂の握りしめる封筒の端を指で弾いた。封筒は厚紙のように堅く、紙の端がひんやりしていた。茂は驚いたように顔を上げた。透の目は、先ほど刃に見たものと同じ——人の疲労を受け止める視線で茂を見つめる。
「眠れてるか?」透は軽く訊いた。茂は首を振った。
「ここ数日、仕入れの表をどうするかで頭が回らなくて……夜も眠れねえんだ。補償で母さんの施設代にはなるけど、ここを誰が守るのかって話で」
透は答えを持っていない。ただ、自分ができることがあるはずだという確信だけが、胸の中で小さく鳴る。帰る場所を作る、――それが透の目的だ。市場は通り名や呼び名以上のものを含んでいる。夜中の猫の声、古い発泡スチロールの匂い、裂けた帆布から染み出す海水。誰かがそこに帰ってこられるようにしておきたい。
「時間、あるか?」透が訊くと、茂は無言で頷いた。透は隣の台から小さな湯桶を取り、熱いお湯を注いだ。手を洗うときの湯気が、冬の空気の中でほんの一瞬だけ温かい光を作る。透は自分の手を洗いながら、ついでに茂の手も洗った。素早く、しかし雑ではない。そのとき、感覚がまた働いた。
布と水の匂いの中で、茂の疲労の残像が透の眼前に一度だけ現れた。若い手の関節が縮み、夕餉の支度を飛ばす少女の影、港の倉庫で一人休む時間の薄さ。どれも強烈に具体的で、茂の生活の細部をつかんでいる。透はそれを茂に見せるわけにはいかないが、理解はできる。無理に意見を押し付けず、ただ寄り添うこと。それが今必要なことだと透は思った。
「選ぶのは、茂だ」透は低く言った。「誰でもない。金で直せるものもある。直せないものもある。その話は休む場所と、朝の一杯と、誰と笑うかも含めてだ。お前が背負うんだ。俺は手伝う。だけど、押しつけはしない」
茂の目に、初めて何かほのかな潤いが戻る。だが、そこに別の気配が忍び寄っていた。市場の中央にある掲示台の方から、大きな声が聞こえた。黒いスーツを着た中年の男が、パンフレットをばら撒きながら業者と話している。市職員の熊谷という名札が胸に光る。彼は効率と数字の話ばかりして、窓口の向こうから眩しい未来図を広げる。新しい道、広い駐車場、最新の流通センター。言葉は甘く、足元の古い板が震えるほどの重さを持っている。
透はまた刃を磨いた。だが、今日はそれをたくさん――多くの人に見せたい衝動が胸に湧いた。もし、あの刃をあちこちで見せられたら、誰が何を失っているか、はっきりと見えるかもしれない。茂だけでなく、お絹さんの膝の皺、真理子の早朝のうつろ、片桐さんの手の痺れ。見せれば、みんなが立ち止まるかもしれない。
だが、胸の奥で別の声が囁く。急いで力を使えば、力は消える。透は昔、その代償を思い知った。友達の市場が一斉に移転を決めた夜、彼は必死に刃を磨き続け、泣くほどに人々の疲労を見せようとした。だが焦りは力を曇らせ、最後の一つを磨いたとき、何も見えなくなった。翌朝、透は眠れず、身体が鉛のように重くなっていた。助けようと焦るほどに、力は逃げ、透自身が休むことを忘れてしまう——その代償は簡単に癒えない。
茂は透の掌を握りしめた。「でも、黙って見てるだけで、なくなる場所もあるんだ。補償だって、当面の家賃にはなる」
「だからといって、急いで決めるな」と透は言う。言葉は静かだったが、意思は強かった。彼は茂に向かって提案をした。「今日はここで、一晩だけ集まらないか。移転の話を持ちかけられた人、補償を受けるか迷ってる人、単に聞いてみたい人。誰でもいい。俺は聞く。強制はしない。ただ、顔を見せてほしい」
茂は目を細め、言葉を探した。「そんな時間、みんなあるか?」
「ないかもしれない。でも、ここが帰る場所なら、帰ってくる時間は作れないといけない」透は答えた。言葉にして初めて、自分が何を守りたかったかがはっきりした。単なる屋台や商売の場所じゃない。笑い声、呼び合う声、手を貸す手の約束。帰る場所とは、選び直せる場所であるべきだ。
茂は封筒をポケットに戻し、頷いた。「わかった。今晩、七時に。あの台のところに集まる。おっちゃんたちにも声かけてみるよ」
透は軽く笑って、包丁を鞘にしまった。だが、胸の中に小さな痛みがあるのを感じた。朝から二度、刃を見てしまった。小さな光が見せる他人の疲労を、二度続けて受け止めることは、昔ほど致命的ではなくなったが、安全圏を超えれば代償は必ず払わされる。透は深呼吸をして、自分の足首を軽く叩いた。休むことを思い出すためだ。だが、それだけでは足りないということもわかっていた。
市場の方角で、熊谷が大きな声で公聴会の日時を読み上げる。壁に貼られた紙の隅に、はっきりとした日付が書いてある——一週間後。港町の冬はまだ始まった