温泉街の盆栽屋の盆栽師は見送ることを学ぶ

温泉街の盆栽屋の盆栽師は見送ることを学ぶ 第5話「第4章」

朝靄が温泉街の屋根を薄く包み、路地に立ち込めた湯気が踊るように流れる頃、田島直人の店はもう仕事を始めていた。台の上には苔をはがしたばかりの鉢、刃先を研いだ剪定鋏、湿らせた布に包まれた茶釜。木の匂いと土の湿り気、鉄の冷たさが混じって、店の空気はいつもより少し濃密だった。

朝靄が温泉街の屋根を薄く包み、路地に立ち込めた湯気が踊るように流れる頃、田島直人の店はもう仕事を始めていた。台の上には苔をはがしたばかりの鉢、刃先を研いだ剪定鋏、湿らせた布に包まれた茶釜。木の匂いと土の湿り気、鉄の冷たさが混じって、店の空気はいつもより少し濃密だった。

直人は掌で鉢縁の土を払うと、ふうと息を吐いた。今日も連絡が来るだろう。昨日の説明会から町の波紋は消えず、住民の目は敏感になっている。志乃が言った「声を残す」話は心に残っていたが、直人はまだ言葉にするに値する決心を見つけられずにいた。

ふいに戸を開ける静かな音。小柄な顔が覗き込み、志乃が尻餅をつかないように体を半分店に滑り込ませた。髪にはまだ湯気の滴がついている。

「直人さん、時間がある? お願いがあって」志乃の声は早口だが、目は真剣だった。

直人は手袋を外しながら首を振った。「少しなら。どうした、また集まり?」

志乃は顎を引き、声を落とした。「説明会で高木さんが数字を並べたでしょ。記録だけでもちゃんと残さないと、後で『こう言っていた』って話が出てくる。住民の、ここに住んでる人たちの生の声を。明日の朝、古い交流館で集め直すことにしたの。直人さんも来てほしい。あなたの声があると、説得力が違うの。」

言葉の端に期待と、遠慮の色が混じる。直人は視線を落とし、作業台の茶釜に映る自分の顔を見た。眠気のせいか、顔の線がいつもより濃い。

「俺は……手伝えることなら」直人は言葉を切った。能力のことは、小さな村の間では噂にすぎない。だが彼自身はその代償を知っていた。物を一度だけ――手入れした道具や食材を通じて、使う人の疲れを“見える形”にしてあげられる。灰色の糸のようなものが、その人の肩からはらりと出て、器の中でほどける。見えるのは一度きりで、解けた糸はその人の胸の重さを減らす。直人はそれを何度も見てきた。だが急ぎすぎると力は消え、直人自身が眠れなくなり、手の震えと胸の締めつけに苛まれる。使った分だけ、自分の休みは減っていくのだ。

志乃は直人の顔色を見つめ、声をさらに弱めた。「ただ、あなたがやるなら、誰か一人だけでも――」

店の戸がまた開き、顔をくしゃくしゃにした老女が入ってきた。佐伯とみ。温泉街の世話役のような存在で、直人より年上だが体は小さい。額に打ち付けられた皺は深い。

「直人さん、あのね。昨夜も眠れんのよ。息子が帰ってこない夢ばかりで。お茶を飲むと少しは落ち着くんだけど……」とみは震える手で古い湯飲みを差し出した。塗がはげ、縁に細かい欠けがある。彼女はそれを大切にしていた。

直人は無言で湯飲みを受け取り、ぬるま湯で軽く拭いた。手は自然に道具の手入れを始める。布の折り目を整え、木製の柄を布で包むように磨いた。いつも通りの所作。だが彼の中では、慎重さが働く。急いではいけない。ひとつずつ、ちゃんとやる。彼の力は精確さと共にある。雑に扱えば、糸は出ない。

とみが湯飲みを握り、口に運ぶ。湯気が立ち上り、器の縁で薄い影が揺れた。最初は何もないように見えたが、直人の視界の隅で、肩のあたりから細い灰の糸がふわりと出た。糸は空気に引かれるようにふるえ、湯気の中でほころび、湯飲みの中に落ち込んだ。とみの表情が急に和らぐ。肩の力が抜け、小さく笑う。

「うん……ああ、楽になった。ありがとうよ、若いの。」とみは湯飲みをそっと膝に置き、しわがれた声で笑った。直人は胸の奥が温かくなるのを感じた。小さな勝利。人の胸が軽くなるのを見ると、彼は何度でもその行為をしたくなる。

その瞬間、戸の外で人の足音が増えた。噂は早い。若い母親が赤ん坊を背負って入り、近所の男が作業着の袖をまくって店の隅に立つ。直人は意識的に深呼吸し、一人ずつ丁寧に対応しようと決めた。だが空気は密度を増し、彼の胸を圧する。誰もが早く“楽”になりたいと切実に願っている。

最初の四人までは順調だった。裁縫箱の布鏡、煤けたおろし金、母の木製乳棒。直人はそれぞれに向き合い、道具を拭き、角を念入りに整え、使われるのを見届けた。糸はふわり、ふわりと出て、器の中でほどけていく。泣く者、ほっと息をつく者、そっと目を閉じる者。町の小さな店に、静かな救いが流れた。

しかし、勢いはやがて直人を飲み込んだ。昼が近づき、用があるからと誰もが順番を急がせる。直人は心の中で天秤にかけた。誰かの痛みを放っておけるか。自分が手を止めたら、誰かが家へ戻って泣き崩れるかもしれない。彼は自分自身に嘘を付けなくなっていた。

「もう一つだけ、お願いできますか?」若い母親が言う。赤ん坊はほとんど眠っているが、母の瞳には見えない疲れが刺さっている。彼女が差し出したのは、手作りの木の笛。赤ん坊がふいに愁いを帯びるとき、その音で心が落ち着くと言った。

直人は小さく頷いて笛を受け取った。だが、さっきまでの丁寧なリズムを保てない自分に気づく。時間がない。次々に頼まれると、手が勝手に作業を早める。拭き方を省いたり、研ぎを甘くしたりする。器の皿をさっと撫で、布を振り払って渡す。

母親が笛を口に当てた。空気が薄く震えた。だが直人の視界には糸が出ない。母の顔には期待が残り、そして葉のように沈んだ。「あれ……」彼女が困惑する。赤ん坊が小さく唸り声を上げる。

直人の胸に冷たい空気が落ちた。急いだ。力は雑に扱われたとき、簡単に消える。目の前で答えが出ないこと、それが彼をもっと追い詰めた。焦燥が増し、次の手を早めようとする。だがその瞬間、彼の体が反応した。

手がかすかに震え、呼吸が浅くなる。いつもは深く落ちていける昼のまどろみに、まったく落ちることができない。疲労が胃の裏で固まった氷のように疼き、まぶたは重いのに眠りに入れない。これが代償だ。力を守るために自分を守るべきだったのに、直人はそれを忘れた。

志乃が駆け寄り、直人の手を取った。「直人さん、大丈夫? 顔色が……!」

「大丈夫だ」直人は声を張ったが、喉の奥が乾いた。雑な仕事で一人を救えなかったことが、彼の胸の底でズキリと疼く。母親は唇を噛み、笛を抱え直して店を出て行った。店の空気に小さな亀裂が生まれる。

そこへ、スーツ姿の一団が通りを歩いてきた。市役所の若手職員・高木が先頭で、名刺を一枚交換する仕草をしながら近づいてきた。だが直人の目に留まったのはその隣にいた男の顔だ。背が高く、年の割に色の抜けた目をしている。作業帽を手に持ち、ポケットに手を突っ込んでいるその男は、名札に「山際 誠」と書かれていた。

山際は店の前で立ち止まり、すっと視線を直人に落とした。顔には気負いはなく、どこか疲れが滲んでいる。その疲れは、直人の力が示すものとよく似ていた。彼が差し出した手は無言の挨拶ではなく、少し震えていた。

「田島さんですね。山際です。昨日の説明会でご挨拶しました。」声は普通だが、言葉の節々に温度がある。高木の言葉とは違う、柔らかさが彼の語り口に混じっている。

直人はわずかに眉を上げる。「どちらへ?」

山際は笑ったような顔で、店の小さなテーブルに身を乗り出した。「用はないんです。ちょっと懐かしくて寄ってみただけ。うちの祖父が盆栽が好きでね。小さい頃、手伝ったことがあって。こう