温泉街の盆栽屋の盆栽師は見送ることを学ぶ

温泉街の盆栽屋の盆栽師は見送ることを学ぶ 第4話「第3章」

朝の湯気が路地を這うように立ち上り、店の引き戸を押したとき、世界の色がいつもより淡かった。植え込みの緑は鉛筆で薄く塗られたように、空は洗い流された硝子のように。早川陽一は瞬間的に手のひらを胸に当て、昨夜の疲労が身体のどこかに根を張っているのを確かめた。眠れていない。目の奥が乾いて、まぶたの裏側に灰色の網目が見える。

朝の湯気が路地を這うように立ち上り、店の引き戸を押したとき、世界の色がいつもより淡かった。植え込みの緑は鉛筆で薄く塗られたように、空は洗い流された硝子のように。早川陽一は瞬間的に手のひらを胸に当て、昨夜の疲労が身体のどこかに根を張っているのを確かめた。眠れていない。目の奥が乾いて、まぶたの裏側に灰色の網目が見える。

「おはようございます、早川さん」

声は元気だった。かんなぎ旅館の厨房から出てきた村上翔太は、いつもの笑顔を作っていたが、笑い皺が深く見えるのは、陽一の目の錯覚ではなかった。袖口にはまだ油の匂い。手先に小さな切り傷の絆創膏。彼が握っているのは、昨夜陽一が手入れした包丁の柄だった。

「おはよう、翔太くん。今日、調子は?」

「うん、まあ。……昨日は、色々とありがとう。包丁、よく切れる。動きが楽になった気がする」

その「楽になった気がする」に、陽一は針で突かれたような痛みを覚えた。彼が見せてしまったもの——翔太の背後に揺れた、倒れこむ幻影。疲労が形をとって、翔太の肩を押していたあの光景。あれが、翔太の選択を押しやったことに気づき始めていた。

「……けど、それで決めたんだろ? あの、旅館側の話に」

翔太の笑顔が一瞬固まった。厨房の床のタイルが冷たく見える。彼は包丁をテーブルに置き、肩をすくめた。

「……そうだよ。新しい動線の案、通しそうだ。設備も入れ替えるらしい。従業員の数を減らして、その分機械に任せるんだって。俺も、最初は反対だった。でも、最近はもう、休めない日が続いてたし、給料も手取りが減ってきて。旅館がだんだんと締め付けてくるのを見てられなかった。あの、早川さんが言ってくれた“手順の無駄を減らす”っていうのは、悪い案じゃない。みんなの負担が減るなら……って、思ったんだ」

陽一の胸の中で、昨夜の光景がもう一度回った。包丁に映った疲労は、翔太自身の意思を顕在化させたのだ。だが、顕在化させることと、選択を導くことは違う。陽一が口を出して、具体的な効率化の方法まで示したこと——それは、翔太の背負っていたものを軽くする代わりに、翔太の決定可能性を奪ってしまったかもしれない。いや、奪っていた。

「俺、あれからよく考えたんだ。正直、楽になったとも思う。明日の仕込みが楽になるなら、早く帰れるかもしれない。でも……」翔太は俯いて、指先で包丁の刃先をつまむように触った。その手つきは、刃を怖がっているかのようだった。「でも、もし機械が入って、俺のやり方が必要なくなったらって思うと、やっぱり怖いんだ。俺の居場所がないっていうか」

「翔太くんは、君の仕事をどうしたい?」

陽一は率直に訊いた。訊くべきことはそれだけだった。だが翔太は答える代わりに笑い、膝を叩いた。

「それがさ……わかんないんだよ。朝から晩まで、考える余裕がない。提案が来るたびに、『仕方ない』って言う。簡単にまとまっちゃう。俺、ここで働き続けたいんだけど、体がついてかない。結局、目の前のラクさに手を伸ばすんだ」

陽一は昨日、自分がした行為を棚に上げることができなかった。包丁を研ぎ、刃を撫でる指先に見えた光景を、ただ映し出すだけだと思っていた。しかし、彼が付け加えた言葉が、ある種の道標になった。疲労を「見せる」ことで、被験者は自分の限界を認識する。そこに解決策を提示すれば、簡単に「解」を受け入れてしまう可能性がある。善意が、選択を奪う刃にもなり得る。

「ごめん、翔太。俺が余計な提案をしてしまったかもしれない」

「ううん、責めんなよ。お前のせいじゃない」翔太は首を横に振った。「ただ、あの日見たのは確かに堪えた。俺だって、本当は自分で考えたかったんだ。けど、疲れてて、手が震えてた。あの時、見せられたら、もっと合理的なほうを選んじゃったんだ。たぶん、誰でも同じだよ」

その言葉に、陽一の胸のつかえは半分ほどほどけた。でも、消えはしなかった。彼の周りの色が淡いままなのは、体調のせいだけではないという直感が、底から湧いてきた。力の代償は眠れないことだけでは済まなくなっているのかもしれない。自分の身体が常に回復を拒まれているように感じられた。

昼前、陽一は盆栽屋を閉めて、通りを歩いた。路地を抜けた先には、かんなぎ旅館の温泉街通り。いつもは観光客の笑い声が波のように聞こえるのに、その日だけは乾いた紙袋の擦れる音が強調されて聞こえる。店先に掲示された紙が、風にひるがえって彼の視界に止まった。

「温泉街再生計画 説明会のご案内——」

黄色い紙には、大きな文字でそう書かれていた。下には「対象地区:湯音温泉商店街一帯」「公募型事業者による地区再編モデルの導入」「説明会日時:三日後、湯音町公民館」と続く。小さく、だが確実に目を引く文言があった。「効率化・可視化システム導入に伴う業務適正化」──要するに、町ぐるみで業務の効率化を計測し、採点する仕組みを導入して、補助金や店舗運営を再編する計画だ。

陽一は紙を撫でた。ざらついた紙の感触が、頭の中のざわめきと重なり合う。「効率化」。それは単なる言葉ではない。人の選択肢を削る器具になったり、働き手を機械に置き換えたり、町の景観まで変えてしまう。今朝の翔太の言葉が脳裏を刺す――「目の前のラクさに手を伸ばす」。

そこへ、商店街の喫茶店『ねむりの花』の店主、秋山菜津(なつ)が現れた。彼女は短く切った髪を帽子で抑え、エプロン越しに手を洗っている。陽一の色の薄さを見て、眉を寄せる。

「眠れてないね、早川さん。顔に出るよ」

「昨日、余計なことをしてしまって……誰かの選択を奪ったかもしれない」

陽一は小さく吐いた。菜津は一瞬沈黙した後、店の奥から珈琲を二つ持って出てきて、陽一に差し出した。湯気はやはり灰色に見えるが、珈琲の苦味は確かに鼻をくすぐった。

「でも、誰もが選びたくて選んでるわけじゃない。選べるようにするのがあなたの仕事だと、私は思う。見せるだけで終わらせないで。そしたら、誰かが自分の居場所を守ろうとする方法を、みんなで考えられるかもしれないよ」

菜津の言葉に、陽一は小さく頷いた。だが、すぐに別の不安が口をついて出た。

「説明会には、事業者が来るようだ。大きな市の名前が載ってた。制度として導入されるなら、個人の声だけじゃ難しい。町全体の依存関係が絡んでくる」

「だからこそ、声を上げる価値があるんじゃない?」菜津は目を細めた。「あなた一人で頑張れと言ってるんじゃないよ。私は店の常連や若女将とも話をするつもり。翔太くんにも提案することがあるかもしれない。自主的な働き方の調整とか、共同のシフト表とかね。外から来る制度に対して、内側から違う選択肢を作るの。強制に従うか、町で守るか、二択にはさせたくない」

陽一は、昨日自分が越えた境界線をぼんやりと思い出した。誰かの疲労を見せることで救おうとするのは簡単だ。けれどそれは、他人の意思を踏み越えることでもあった。彼は自分の力に条件と代償があることを、今一度はっきりと思い知らされた。力を使えば、眠れなくなり、色が失われ、判断力まで鈍る。だからこそ、力の使い方を慎重にせねばならない。

「俺、一つだけ確認したいことがある」陽一は言った。「あの紙