雨町の自転車店の自転車屋は地域の声を聞く

雨町の自転車店の自転車屋は地域の声を聞く 第9話「第8章」

雨は細く、いつまでもやまなかった。自転車店の大きなガラス戸に叩きつけられる滴が、外の通りを薄くにじませる。はるはカウンターの上で古いスパナを拭きながら、指先に残る油の匂いを吸った。店の蛍光灯は震えるように点滅し、奥の棚の缶に貼られた古い伝票がかすかに光を返す。

雨は細く、いつまでもやまなかった。自転車店の大きなガラス戸に叩きつけられる滴が、外の通りを薄くにじませる。はるはカウンターの上で古いスパナを拭きながら、指先に残る油の匂いを吸った。店の蛍光灯は震えるように点滅し、奥の棚の缶に貼られた古い伝票がかすかに光を返す。

スパナを手にしたとき、いつもの像がちらついた。工具に宿る力が働き、取り扱う人の疲れが一度だけ見える。目の前のスパナに、近所の男子中学生・直樹の背中が投影された。重いランドセルを背負い、放課後に寄ったコンビニのカウンターにもたれ、眉間にできた細かいしわが光る。はるは息を吐く。直樹の母親が今日、夜勤だと聞いている。見せられた疲れは短く、消える。

「はるさん、いる?」

電話の表示で小宮の名前が揺れる。はるは留めたまま、スパナでチェーンを軽く伸ばした。手に伝わる冷たさと油の抵抗。答えを出す前に、小宮の声が入ってきた。

「今日、やるよ。市役所の展示、ちょっと挟み込みで——プロジェクターに、手描きのやつ流す。職員の目を逸らす隙だって見つけた。夜 sevenで来てくれる? はるは修理に飛び回るって言ってたけど、あの模型、あれだけは見せたくないんだ。」

小宮の声は震えていた。興奮と焦りが入り交じっている。はるはガラス越しの通りを見やった。向かいのパン屋の軒先に置かれた自転車のサドルに、雨水がたまっている。

「今は修理を終わらせないと。明日の搬入、みんな頼ってるんだ。」

夕方の搬入に間に合わせるため、はるは何台もの自転車を抱えていた。展示用に使えるきれいな一台、地域の人が乗っている形で残しておきたい。はるは自分の言葉に自信を持たせるように返したが、切れたように小宮は「分かった」とだけ言うと電話を切った。はるは受話器を置き、湿った空気を胸いっぱいに吸った。

「やらなきゃいけないこと」と「見せなきゃいけないこと」。はるの掌の中で、その二つの言葉がざらついてこすれ合う。工具箱の中で、使い込まれたラチェットがカチャリと鳴った。はるは深く息を吸い、店のシャッターを上げると仕事に戻った。

客足は途切れない。傘をたたむ音、ビニールの擦れる音、子どもの自転車のベル。はるは次々と軽い故障を片づけた。ペダルのゆるみ、ブレーキワイヤの張り、リアホイールの振れ。修理の合間に道具に触れると、いつも通りに人の疲れが見える。年配の男性の手が、半年前に腰を痛めたまま畑を続けている影を残す。若い母親の握るハンドルに、夜中の授乳と仕事に追われる目の下のクマ。はるはそれを見て、黙って調整する。工具の先で柔らかく、しかし確実に。人の疲れが一瞬見えるたびに、はるの胸は締めつけられる。彼らを楽にしたい気持ちが、じわじわと膨らんでいく。

夕方四時、店は軽くて忙しい。小学校の帰り道の群れが通りを走り、商店街の人影が増えた。はるは一度に四台を抱え、搬入用の自転車を同期させるように調整した。時間が迫る。心の中で「これを終えれば」と繰り返すたび、彼女は調子を上げていった。だが――力のしきい値があることを、はるは忘れかけていた。

「もう一台、急ぎで頼む!」

店のドアが勢いよく開き、近所の女子高生・紗和が駆け込んできた。足踏みで店の中は雨の匂いが満ちる。彼女の自転車の後輪が大きく振れていた。はるは手を伸ばす。工具に触れると、紗和の疲れが一瞬強く見えた。テスト勉強と塾、アルバイトで消えそうな眼差し。はるは顎を噛んで、素早くナットを締め、スポークを叩く。音が規則的に並ぶ。はるはもっと速く、もっと多く。胸の奥で、誰かのために力を尽くさなきゃという圧が膨らむ。

「お願い、今日の展示で使いたいの!」

紗和は息を切らしながら言った。はるは頷くと急いで仕上げ、車輪を浮かせて回転を確かめた。回り始めた車輪の蛇行が、彼女の目に鮮明に見えた瞬間――力がふっと消えた。工具が重くなる。手先の感覚が薄れ、目の焦点が合わない。はるは思わず膝をつき、カウンターに手をついた。

「大丈夫ですか?」

店の隅にいた常連の佐伯さんが寄ってくる。はるは顔に手を当て、答える力を探した。胸の内の温度が一気に冷え、眠気と震えが混じる。目の前の世界が紙一重で揺れる。力を出し過ぎると、自分の休息が奪われる。代償はいつもこうして姿を見せた。急いで「すぐ治します」と言う気持ちでやりすぎたとき、能力は反発して消える。しかもその夜は、眠れなくなる。眠りが遠のき、身体が騒ぎ、思考が絡まる。

紗和がゆっくり自転車を押して店を出るとき、はるは自分の手元で起こった小さな失敗に気づいた。締めたハブのボルトが一つだけ少し緩んでいた。紗和は家までもたずに、通りで止まった。幸いにも大きな事故には至らなかったが、はるの胸には冷たい悔恨が広がる。もし力が消えていなければ――。そう思うたびに、はるは何度も自分を責めた。効率だけで助けを測ろうとした。その瞬間に、自分の力が自らを守るために逃げたのだと理解した。

「はるさん!」

濡れたコートのフードをかぶった小宮が、肩を震わせながら店に飛び込んできた。手には封筒が一杯詰まったビニル袋。中からは切れ端や色のついた紙が覗いている。小宮の頬は赤く、目の先にはまだ市役所のガラスが反射しているらしい。

「やったの?」

はるはふらりと立ち上がるのがやっとだった。小宮は息を整えながら、顔を輝かせる。

「やった、っていうか……奪ったっていうか。市役所のホールで、職員の注意が別のところに向いてる隙に、プロジェクターに紛れ込ませたの。市の模型の隣に、みんなの手描きの絵を流したんだ。最初は消されそうになったけど、通りすがりの職員の一人が目を止めてくれて。そしたら別の人が、黙って椅子を外してくれて——」

小宮は息を詰め、袋から一枚を取り出した。そこには鮮やかな市場の絵が描かれていた。ペンのタッチは粗く、色は重ねられ、活気のある屋台や笑っている顔がにじんでいる。だがはるの目は、その絵の片隅にある一本の小さな自転車のスケッチに釘付けになった。木製の看板にもたれ掛かるように描かれたそれは、確かに見覚えのある姿だった。店先の小さな窓、白い手書きの「修理」の文字。描き手は、あの通りの誰かだ。

「誰の絵?」

「田島さんよ。八百屋の。断られると思ってたんだけどね、行ったら描いてくれたの。『売り物には出せないけど、店の思い出なら』って。あと、恵子さんのも持ってきた。さっきは公務員の一人が涙を拭ってたって。やっぱり、生の絵は効くんだよ。模型の前で、モノクロの街並みに色を差したら、周りからざわつきが出て——」

小宮の言葉は早口で、息を切らしている。だがその顔は晴れていた。はるは袋の中に手を伸ばす。紙の質感、インクのざらつき、湿った空気に混ざる色の匂い。どの絵にも、はるの力が反応する。工具とは違う、扱いと手入れを受けた他人の手仕事が見せる疲れが、薄い映像となって浮かんだ。田島さんの絵の自転車には、長年荷物を載せて走ったせいで座席のサスペンションがへこんだ影が映る。恵子さんの雑貨屋の絵には、夜店の後片づけを一人で終える細い背中。すべてがはるの体内で、ひとつずつ震えた。

「あの模型、ただの計画図じゃない。見たらわかる。絵は一枚一枚が声に