離島の保育所の保育士は店を畳まない

離島の保育所の保育士は店を畳まない 第8話「第7章」

潮の香りが風に乗り、保育所の縁側を撫でていく。紙粘土の匂いとマジックのインク、子どもたちの声が重なって、朝の園庭はちいさな市場のようだった。台の上には色紙で作った旗、貝殻を縫い付けたモビール、木の看板用のニスの缶。手作り見学会の準備は、島の人間たちの手で進んでいる。

潮の香りが風に乗り、保育所の縁側を撫でていく。紙粘土の匂いとマジックのインク、子どもたちの声が重なって、朝の園庭はちいさな市場のようだった。台の上には色紙で作った旗、貝殻を縫い付けたモビール、木の看板用のニスの缶。手作り見学会の準備は、島の人間たちの手で進んでいる。

「綾さん、こっちのフォントどう思います?」若手保育士の真琴が、にぎやかな紙の山から顔を出す。頬にはのりの跡。髪の端が紫色のペンで汚れているのが愛らしかった。

綾は縁側の影に座り、古い木のスプーンを磨いていた。木目をなぞる指先のひんやりとした感触。研磨布を往復させるたび、スプーンは淡い光を取り戻していく。磨かれた器具は、綾の小さな力の媒体になる。使う人の疲れが、ほんの一度だけ、何かしらの形で浮かび上がる――綾が手入れをし、その器具を誰かが使うときだけ見える小さな徴。優しく、しかし不完全な救いだ。

「いいと思うよ、素朴で温かい」と綾は短く答えた。声は柔らかかった。見学会の中心は若い保育士たちが担っている。綾はそのことを喜んでいる自分と、どこかで胸が締め付けられる自分を同時に感じていた。彼女は店を畳まない。保育所を閉じさせないために、できることを続けると決めた。それが、ここでの仕事だ。

「綾さん、あの、綾さんは今日はゆっくりしててください。私たちで大丈夫ですから」と結衣が言う。結衣は去年島に来たばかりの新任保育士で、子どもたちにはあっという間に人気者になった。目がきらきらしている。彼女の動きはいつも迅速で、でも攻めではなく招くような速さだ。

綾は首を振った。「手伝うよ。ちょっとこのスプーンを――」と言いかけ、手が止まる。手のひらに伝わる研磨布の感触が、いつもより重い。最近、力を使う回数が増えた。先週、夜通しで何本も肌着を整え、手入れしたおもちゃを母親に手渡した。そのとき見えた疲労は、幼い父親の背中にまで触れていた。あれ以来、彼女は眠りの深さを失った。力を使うたび、身体の奥に小さな引き裂きができるようで、後でまとまって休めなくなるのだ。

「いいよ、今日は見てるだけで」と真琴が促す。彼女たちの確信に満ちた顔を見て、綾は深く息を吐いた。彼女は立ち上がり、スプーンを箱に戻した。「じゃあ、看板の色塗り、お願いね」とだけ言って、縁側の隅へ移る。影に沈むと、海風が少し冷たく感じた。休むことを選ぶのは、どこか敗北のようでもあり、救いのようでもあった。

午前中は穏やかに過ぎていく。保護者たちがやってきて、子どもと一緒に飾り付けをする。笑い声と、のりの引っ張られる音。真琴が糊を手に、父親と一緒に大きな紙の太陽を作っていた。結衣は親子の写真を一枚ずつ撮り、手作りの名札を配る。綾は縁側に座って、ペットボトルに差した薄紫の花を見つめる。潮騒が遠いリズムで流れて、子どもの声がその上で踊る。

ある親子連れが休憩に来て、綾の脇を通り過ぎる。母親の手には、さっき磨かれた木の小皿が握られていた。皿に触れたとき、綾の力は反応する。小さな光の揺らぎが皿の鼻先に映り、母の眼差しが一瞬止まる。皿を通じて見えたものは、鉛色の細い線のようなもの――日々の断片的な疲労が集まった形。母親の指先にその線が走るのを見た瞬間、母は手を止め、肩を落とした。

「ああ……」母親は低くつぶやいた。隣にいた若い父親が心配そうに尋ねる。「大丈夫ですか?」

母親は皿を見つめたまま笑った。「最近、夜中に子どもが起きるの。洗濯も、仕事も、全部私ばかりで……でも、こうして形になると、ねえ、ちょっと助けてもらおうって言いやすいわ」

真琴がさっと寄り、母の肩に手を置いた。「今日はお父さんと一緒に名札作り手伝ってもらいましょう。お母さんはゆっくりしなきゃ」

その光景を見て、綾の胸に小さな安堵が広がる。自分の力がまた誰かの気持ちを動かしたと知ると、やはりそれは嬉しい。けれど同時に、身体の奥で何かが窮屈に鳴る。休むべきだ。力を使いすぎたら、後で自分が休めなくなる。綾はそういうルールを自分に課している。

そんなとき、園庭から子どもの泣き声が高く上がった。小さな砂場で走り回っていた光(ひかる)が転んだのだ。砂が静かに飛び散り、膝から血がにじんでいる。真琴が叫ぶ前に、綾は立ち上がっていた。身体の反射が先だ。かつてなら彼女は飛び出して手当てをし、手入れしたハンカチを差し出して疲労を見せ、親にも理解を促しただろう。

綾は走った。縁側から砂場へ向かう一歩一歩は、まるで古い筋のようにぎくしゃくしていた。光の頬には紫の擦り傷。母親の顔が怒濤のように歪む。綾は咄嗟にポケットの布を取り出し、擦り切れたハンカチを広げて拭こうとした。急ぎすぎていた。助けたいという気持ちが、彼女を駆り立てる。

だがハンカチに触れたとき、なにも見えなかった。いつもなら、手入れのすんだ布が使う人の疲れを一度だけ見せるはずだった。だがその布はただの布に戻っている。綾の胸の奥が冷たくなる。力が消えたのだ。無理をしてしまった。急ぎすぎた瞬間、彼女の力はぴたりと消えてしまう。

「大丈夫、綾さん」結衣が駆け寄り、落ち着いた声で光を抱きかかえた。真琴は救急箱を取り出し、手際よく消毒と絆創膏を当てる。母親は深く息を吐き、ぽつりと笑った。「お世話になりました……みんな、ありがとう」

園庭の空気が戻る。人々は皆、自然に動いていた。綾は膝に手をつき、少し息を整えようとしたが、心臓のざわめきが治まらない。力を使おうとして消えたときと同じように、今は眠りが逃げていくような感覚が胸にある。彼女は急いでいた。助けたかった。その焦りが、自分の休む権利まで押しやってしまった。

「休んで」と真琴が膝にそっと新聞紙を敷いて綾を腰かけさせる。「あなたがいなくても、私たちは回せるって知ってほしいの。綾さんはいつも、全部背負いすぎるから」

綾はその言葉に頷きたかったが、言葉は出なかった。身体は震え、呼吸が浅い。自分が選んだ立場が、どうしてこんなにも人を追い詰めるのか。彼女は海を見た。水平線は平穏で、島の家々が溶けるように並んでいる。波の音は遠くて安定している。なのに、内部では小さな嵐が吹いていた。

そんなとき、携帯が震えた。親の一人がイベントの様子を撮ってSNSに上げたらしい。写真は手際よく切り取られ、色とりどりの飾り、笑顔、そして真ん中に据えられた木の看板が写っていた。見学会の楽しげな一枚だ。だが、その写真の隅に、磨かれた小皿が白い光を放っているのが写っていた。ほんの一筋、薄い霧のように見えている。

結衣が画面を覗き込み、小さく声を上げた。「あっ、このお皿、光ってますね」

「光?」綾は身体を伸ばして見る。画面の中の皿に、確かに淡い揺らめきがあった。普段は人の目には見えないはずのものが、写真に写ることがある。古いカメラや偶然の角度で、力の痕跡が可視化されることがあるのだ。綾はそれを見て、胸が締まる思いがした。誰かが投稿したその一枚が、外へ届く。

「島の人たちに見せたいね、こんな温かい場所だって」と真琴は無邪気に言う。結衣もそうだと頷く。だが綾は画面を見つめたまま、言葉を失った。外の目がこの小さな奇跡に興味を持つかもしれない。良いことだけとは限らない。効率や成