離島の保育所の保育士は店を畳まない

離島の保育所の保育士は店を畳まない 第26話「第24章」

潮風が広場を斜めに走る朝。綾は布地の擦れる音と、湿った木の匂いの混ざった空気の中で、皿を一枚一枚手に取っては拭いていた。保育所の裏手を簡易の受付に仕立て、小さなテーブルに並べたのは、島の台所で普段使われている皿やスプーン、竹のざる――古くても、手入れの行き届いたものばかりだった。布がすべるたびに、塩が目の端にしょっぱく滲む。

潮風が広場を斜めに走る朝。綾は布地の擦れる音と、湿った木の匂いの混ざった空気の中で、皿を一枚一枚手に取っては拭いていた。保育所の裏手を簡易の受付に仕立て、小さなテーブルに並べたのは、島の台所で普段使われている皿やスプーン、竹のざる――古くても、手入れの行き届いたものばかりだった。布がすべるたびに、塩が目の端にしょっぱく滲む。

「綾さん、列ができてきたよ」

小夏が声を潜めて言った。彼女は厨房の腕っぷしの強さを顔には出さず、籠にパンを並べ直している。里奈は子どもたちを少し離れた位置で寝かし付けつつ、合図の笛を握っていた。航は濡れた釣り糸みたいに手を拭い、腕を組んで海の方を眺めている。村人たちの顔には期待と、どこか訝しげな影が混じる。

遠くから黒いスーツの影が近づく。島田――島の再開発計画を説明する役所の係員だ。革靴の靴底が砂を踏む乾いた音が、広場の活気を少し削いだ。

「午前の催しですか。保育所の面積や安全基準は市役所のデータと食い違います。許可は得てあるのですか?」

島田は資料ケースを持ち上げ、字面の整った紙を見せる。綾は皿を拭く手を止めずに、肩から声を返した。

「許可は出しています。今日のは公の説明会じゃなくて、皆で話すための“見える化”です。見せるのは疲れで、誰かを責めるためのものじゃない。」

島田の唇がぎゅっと結ばれた。そのとき、列の一角で小さな声が上がった。真琴という若い母親だ。赤ん坊を抱き、ちょっと前歯を見せて笑うような顔をしているが、目は眠れなかった夜の黒い輪で縁取られていた。

「私のことを……見せてもいいですか?」

真琴はゆっくり手を上げた。周りの視線が重なり、ざわめきが膨らむ。綾は皿を拭きながら、胸の底に冷たさを感じた。力はいつもそうしてやってくる――磨くことによって、どこか遠い疲れが一度だけ皿の表面に滲む。だがそれを出すには、綾が落ち着いて、誰の疲れを出すかを選び、急がずに磨くことが必要だった。急いては事をし損じる。いつだってそうだった。

「いいよ。来て」

綾は真琴の隣にしゃがみ込み、真琴の両腕に抱かれた赤ん坊の肩の熱を感じながら、皿を差し出した。ゆっくりと指先で縁を撫でる。布が陶器に触れるささやかな音。空気が緊張の糸を張るように静まった。すると皿の釉薬の上に、淡い光の膜が生まれた。最初は指先大の浮遊する光で、やがて広がり、皿全体を含んだ柔らかな光の輪になった。

その光がふっと空気を伝わり、真琴の顔に投影された。母親の瞳が一瞬ぼんやりし、そして見開いた。皿の光は彼女の前夜の断片を映し出す――ミルクを温める手、空っぽの冷蔵庫、子どもを抱きながら眠れない腕。映像は責めることも、解決策を示すこともせず、ただ存在を写し出した。広場の人々の息が揃って漏れた。

「かわいそう、だけど……美しいね」

航の低い声がきしんだ。視線は全て真琴に集まっているが、真琴の表情はまるで自分の胸の内を誰かがやさしく示してくれたかのように、柔らかくなっていった。誰もが自分事として受け止め始めている。

だが、綾の胸の奥には別の重さが押し寄せる。皿を拭く手が震えだした。最初の一枚のあと、二枚目、三枚目と光は確かに出た。しかし数を増すごとに綾の視界が薄くなり、周囲の音が遠ざかる。最近、夜眠れない日が増えていた。代償がじわりと忍び寄っていたのだ。

「綾さん、大丈夫?」

里奈の声が近づく。綾はうなずこうとして、喉がからりと音を立てるのを感じた。布が陶器に擦れる音が、やけに大きくなった。次に磨いたスプーンの光が、いつものように鮮やかに弾けるはずだったのに、表面がくすんでいる。光は一瞬だけ反射して消えた。

「あれ?」小夏が顔をしかめる。島田の眉が一層吊り上がった。

綾は冷たい穴が胸に穿たれるような感覚に襲われた。力が、急ごうとした瞬間に抜ける。急いだからだ。もっとたくさんの皿を、もっと早く――その焦りが罠だった。力が抜けると、綾の身体は夜の眠りを奪われる。頭が冴え、呼吸が浅くなる。前にもあった。代償はいつも、綾の「休むこと」を奪っていった。

「私、少し休むから」と綾は言い、腰を下ろした。布を落とし、潮風に顔を晒す。広場のざわめきが波紋のように押し寄せる。島田は紙をにぎりしめているが、今は何も言えない様子だ。真琴はゆっくりと立ち上がり、その皿を抱えるようにして綾に近づいた。

「綾さん、私のだけで十分だよ。みんな、自分の番を取ればいい」

真琴の言葉に続いて、意外な声が上がった。島のパン屋の老女、渡辺さんが両手を腰に当てて前に出る。藍染の上着の腕には長年の油染みが薄く刻まれている。

「私が次に出る。あんた一人に頼るんは酷だ。」

と、小夏が叫ぶように言った。「私も自分でやる。綾さんは見せる指針だけ示して!」

仲間たちが、それぞれ自分の疲れを見せると申し出てきた。誰もがそっと、でも確固たる意志を湛えている。綾はその一つ一つの顔を見て、胸が熱くなった。力の使い手は確かに自分だ。でも、使い方は綾だけのものではない。初めは「証明」として使おうとしていた光が、瞬く間に「対話の契機」へと変わっていく。一枚を綾がじっくりと磨き、その光を村人の選んだ当事者に向ける。その当事者が自らの皿を抱え、顔に映された疲れを見せる。見せることを選ぶ。それだけで十分だった。

綾は深く息を吸い、布を取ってもう一度立ち上がる。今度は急がない。小刻みに、意識を手元に戻す。風の匂い、布のざらつき、陶器の冷たさ。ゆっくりと、時間をかけて磨いた。光が立ち上り、渡辺さんの腕の記憶を映し出すと、広場には静かな泣き声がひとつ、またひとつと広がった。誰かの肩に手が置かれる。言葉が生まれる。

それでも代償はやってきた。三回、四回と光を出すうちに、綾の体温は下がり、指先がしびれた。布に力を込めるたび、頭の中が透明になっていく。夕方近く、島田が説得にならない怒りを露わにして退席すると、広場の空気はぐっと重くなった。

「これ、どうするの。計画側は黙ってないわよ」

航が低く呟いた。潮の匂いと魚の匂いが混じる。綾はスプーンの裏側を覗き込み、薄く残った光の痕跡を見た。光が引いたあと、皿の縁に小さな刻みが残る。指先で触れると、そこにごく薄い紋章のような痕跡が感じられた。

「これは……輸送のスタンプよね?」小夏の声が震えた。彼女は皿をひっくり返し、焼き付けられた小さな文字列を指差す。黒く掠れた数字。島外から入ってくる物資の荷札と同じ形式だ。

綾の胸が、また一度締め付けられた。疲れを映す力は、それだけを映すわけではない。疲れの源を、少しだけ示すことだってあった。皿に残った痕跡が、誰かが選んだ疲れの経路を指し示すなら、それは偶然の一致ではない。広場に集まった人々の疲れが、同じ会社のスタンプ番号を辿ることを、綾は直感した。

「追えば、流通の根に触れられるかもしれない」里奈が小声で言った。島を支配するように入ってくる荷物、効率を求めて労働と選択を圧迫する契約。その正体に、光は薄い糸を垂らしていた。

綾の指先が震える。夜が迫る。使い切った分の代償が、すぐに顔を出すだろう。眠りは遠く、胸は冷たい空洞で満ち始める。しかし、新たな事実が出た。輸送ス