雪原の診療所の看護師は一人で頑張らない 第29話「巻末特別章」
雪が止むことを知らないように、朝の光も薄く沈んでいた。診療所の屋根からときおり落ちる雪の塊が、土間の戸の近くに音を立てる。凛子は手をこすり合わせて、やかんの縁から立ち上る匂いを深く吸った。湯気のなかに混じる干しリンゴの甘さが、いまだけは世界を許しているように思えた。
雪が止むことを知らないように、朝の光も薄く沈んでいた。診療所の屋根からときおり落ちる雪の塊が、土間の戸の近くに音を立てる。凛子は手をこすり合わせて、やかんの縁から立ち上る匂いを深く吸った。湯気のなかに混じる干しリンゴの甘さが、いまだけは世界を許しているように思えた。
「もう並んでるよ、凛子さん」
外から安田の低い声。戸を開けると、雪にまみれた男が肩をすくめて立っていた。彼の背後には小さな列ができている。恵子が手編みの毛糸帽を押し上げ、由馬が獣医用のマスクを顎につけている。長谷川は杖をつきながら、いつものように無造作に風呂敷を抱えていた。風に運ばれてきた冷気が、診療所の暖かさとぶつかっては消えた。
「今日の分の『手入れ籠』、みんなで預けてくれたの。診察が混み合うって連絡があったからって、歩いてきたんだよ」
恵子が笑いながら籠を差し出す。中には縫い直された手袋、打ち直した毛布、煮詰めたスープの瓶が丁寧に並んでいる。手入れの匂い——獣毛の油、焦がし砂糖の香り、手の塩気。凛子はそれらを一つずつ受け取ってテーブルに並べた。
「いいよ。落ち着いて順番に——」
彼女が触れると、最初の手袋の縫い目をたどるように淡い蒼の線が浮かんだ。それは人の疲れがかたちを取ったようで、縦糸のように細く、どこが重いのかを指し示した。光はじっとして短く、見えるのは一度だけ。凛子はその線を見て、必要な処置を頭の中で選んでいく。足を温めるべき、話を聞くべき、薬を調整すべき。誰かが手を差し伸べてくれた時の、やわらかな安心が胸に広がる。
最初の一〇人は、静かに済んだ。由馬が犬の足に消毒をし、恵子が縫いを直した帆布で包み、安田は近所の若い母親に熱いスープを渡した。凛子は一つにつき一度だけ、物の手入れが見せる“線”を頼りに、声をかけ、処置を決めた。やがて、診療所の短い廊下の向こうで、もっと大きな音がした。
「そっちに人が倒れてる!」
子供の叫び。外で馬のひづめが滑る音、そして固い雪に頭を打った乾いた音。窓の外に見えたのは、近道の旧道で横倒しになった荷車と、その脇に座り込む中年の男だった。荷が崩れ、彼は肩を叩きつけられたらしい。村の行事の帰りらしく、人々が雪の中を走ってくる。
「行くわよ、荷物は任せて!」
長谷川が杖で雪を突き、先に飛び出す。凛子もエプロンのポケットに手を突っ込み、消毒液と包帯をつかんだ。だが、急いだ。誰もが彼女に頼っているのを知っていたから、急いだ。
倒れている男の手を取って、凛子はその袖に触れた。いつも通りなら、縫い目に沿って蒼が走るはずだった。だが、何も出ない。指先に伝わるのは生々しい寒さだけ。凛子は首を傾げ、もう一度丁寧に触れ直した。何度触れても、ものは沈黙した。
「大丈夫? 意識はある?」
男は辛そうに息をしながらうなずいた。額に血が滲んでいる。由馬がワラを敷き、安田がロープを取り出す。凛子は、見えない疲れをどう読み取るかで決める通常の判断がきかないことに、冷たい焦りを覚えた。
「手袋、他の物は?」
恵子が駆け寄り、荷車の中から湯たんぽを取り出した。凛子はそれに触れる。今度は、微かな波紋が指先に伝わって、湯たんぽの金属面に細い光が一回だけ走った。男に必要なのは頭を冷やすこと、動かさず救急に繋ぐこと——凛子はそう判断して包帯をあてがい、みんなでそっと担架を作った。
診療所に戻ると、次々と人がやってきた。屋根の雪が落ちて脚を挫いた幼児、吹雪のなかで熱を出した高齢者、凍えて顔を失った羊飼い。凛子は手を止めなかった。手袋、湯たんぽ、毛布、スープ。どれもが一度だけ真実を見せてくれる器であり、診断の糸口だった。彼女はそれを頼りに、縦横無尽に動いた。
だが、三十人を越えたあたりで、始まりがあった。触れても光が現れない。あるいは、現れてもとても短くて読み切れない。凛子の胸の中で、何かがちぎれるようにきしんだ。手早くしなければ、と自分に言い聞かせるほど、感覚は遠のいた。急ぐほどに突っ張る針のような焦りが体に張り付く。彼女は無理を重ね、同じ手袋を何度も触り直した。すると、景色が変わった。
胸が熱い。手の震え。眠気がないのではなく、眠ることができないという恐怖。帰って布団に入っても、まぶたの裏には蒼い線が踊らず、代わりに無数の未処理の顔が浮かび上がる。仲間が交代で声をかけ、促してベッドに押しやるが、凛子は目を閉じても眠れなかった。胸の奥に小さな穴が開いたようで、そこに温かさが入ってこない。
「力、止まったのか?」
由馬が静かに言った。凛子は首を振った。言葉にはできない。自分の中のルールが壊れた気がした。道具や食材が一度だけ現す疲れを頼りにしてきた。だが、その“見せる力”は万能ではなく、彼女が焦って手早く済ませようとするその瞬間に、途切れる。さらには、代償として眠りを奪う。凛子はそれを、肌身で知った。
安田が凛子の手を取った。雪の匂いがその手から伝わる。
「無理すんな。俺らでなんとかする。お前は休め」
「休めないの。寝ても、身体が休まらないの」
声が小さく震えた。みんなの手が、彼女を囲んだ。恵子が布団の端を掴み、長谷川が窓を少し開けて冷たい風を入れる。凛子はその中で、初めて自分の限界を誰かに見せたような気がした。ひとりで頑張らないと決めたのは自分だ。だが、それを本当に守るのは、あなたたちを巻き込むという意味でもあった。
夜になり、診療所の土間には交代表が貼られた。恵子が字を書き、由馬が笑いながら自分のシフトを見せる。安田は外回りを申し出て、長谷川は軽い傷の手当てを受け持つと言った。みんなが、自分でできることを選んでいた。誰もが凛子の肩から役割を奪う気はない。むしろ、彼女がいないときにも同じ手仕事が続くように、手入れの仕方を教わり、道具の整え方を覚えていくという申し出だった。
凛子は自分の手の震えを押さえ、白い指で交代表に目を落とした。そこに、もう一つの音が混ざった。入口の戸がノックされる。顔を出したのは、見慣れない男だった。片山だった。彼は役所の書類ではなく、小さな木箱を抱えていた。箱の蓋には、印字された紙が一枚貼られている。『実証用・遠方巡回用サンプルセット』——そう読めた。
「遅くなってすまない。これ、試してみてほしいと——説明会のあとに話した件で、自治体からの支援だ」
片山の声はいつもより低く、紙の箱を慎重に差し出す。凛子はその箱を受け取った。木の香りの奥に、工業的な匂いが混じる。箱を開けると、中には規則正しく並んだ手袋があった。どれもきれいで、同じ形で、布目が機械織りの精度を示していた。ラベルには「手入れ済(機械)」と小さく記されている。
「これに凛子さんの力、反応するのかな……?」
由馬が眉を上げる。安田は凛子の目を見て言った。
「検査して、効果があるならそれはそれで使える。だが、もし違うなら、俺らで手入れを続ける」
凛子は箱の布片に触れた。冷たい。機械の正確さが指先に伝わり、蒼は出なかった。だが、その瞬間、眠気が突如として襲ってきた。身体の中にぽっかりと穴が生まれる代わりに、今度は重さが伸びてくる。目が、まぶたが落ちる。
「動かないで、無茶するな」
恵子