雪原の診療所の看護師は一人で頑張らない 第27話「第二部幕間」
雪は昼前からまた細かく降り始めていた。診療所の窓の外、白い平原がどこまでも静かに広がり、風が撒いた雪煙が遠くの木立をぼんやりと揺らす。中では、凛子が湯たんぽに熱を入れ、恵子が雑貨屋の大いなる布で包んでいる。由馬は診察台の上に犬の毛を払って、小さな毛玉を親指でつまんだ。安田は手袋の縫い目を確認しながら、郵便カバンを床に置いた。空気は煮えたぎる鍋の匂いと乾いた羊毛の匂いが混じって、どこか温かい。
雪は昼前からまた細かく降り始めていた。診療所の窓の外、白い平原がどこまでも静かに広がり、風が撒いた雪煙が遠くの木立をぼんやりと揺らす。中では、凛子が湯たんぽに熱を入れ、恵子が雑貨屋の大いなる布で包んでいる。由馬は診察台の上に犬の毛を払って、小さな毛玉を親指でつまんだ。安田は手袋の縫い目を確認しながら、郵便カバンを床に置いた。空気は煮えたぎる鍋の匂いと乾いた羊毛の匂いが混じって、どこか温かい。
「今日は三軒分、頼まれてるんだったわね」恵子が手を止め、白い湯気の中で目を細めた。糸の先が指先に絡みつき、針が淡く光る。
凛子は笑いながら針を押し、縫い目を整えた。「そう。長谷川さんの帽子、佐倉さんのスープ、あと夜回りに出る子供たちのカイロ。皆、手入れをしておけば――」言葉を切って、彼女は縫い目に触れた。
針先から掌へ、淡い光がすっと流れ、目の前の布に薄い模様が浮かぶ。それはまるで小さな地図のようで、亀裂や陰が疲労の「かたち」として浮かび上がる。凛子は息を詰める。見えるのは、長谷川の肩の曲がり方、朝四時に起きた跡、湿った手の冷たさ。
「夜、海に出る日が多い。風当たりがきつい」凛子がぽつりと言うと、恵子の顔が沈む。彼女の針は止まったままだった。
由馬が隣でスープ鍋の蓋を持ち上げ、小さな湯気の渦を覗き込んだ。鍋の中で、魚のだしが淡く踊る。凛子は由馬の差し出したお玉に触れ、すぐにそれが一つの像を結ぶのを見た。由馬自身の疲れ。診療所に来る多くの人を助けようとして、知らず知らずに肩を張っている。由馬は驚いた顔で視線をそらし、手を引っ込めた。
「これ、誰が使うためのものでも、手入れをした人にその人の疲れが見えるのね」安田が言う。彼は郵便カバンを開け、小さな牛皮の札を取り出した。札は冬の冷たさで硬い。凛子が手の甲を札に押し当てると、そこに冬の朝の道を歩いた痕跡が映る。安田の目が一瞬光った。
「だから、誰が準備するかで見えるものが違う」恵子が針を進めながら付け加える。「あなたが誰かのために手入れすれば、その『誰か』の疲れが一度、あなたに見える。それでどう手を貸せばいいかが分かる。昨日、それで佐倉さんの薬が早く効いたのよね」
「うん、でも一度きりよね。使い捨てみたいなもの」由馬が苦笑する。凛子は縫い目を見つめて、やがて小さくうなずいた。その「一度きり」があるから、皆が少しずつ順番に関わることで診療所の負担を分けられると、彼女は信じていた。
午後が少し傾きかけた時、玄関の戸がゆっくりと開いた。雪を払いながら入ってきたのは、隣の集落の主婦・佐倉彩(さくらあや)だった。顔色は青く、掌に小さな震えが走っている。凛子はすぐに診察テーブルへ引き寄せ、恵子が慌てて毛布を持ってきた。
「夜、どうしても動けないんです。腰が――」佐倉が声を詰まらせる。
凛子は彼女のエプロンの端をつまみ、ほんの少し指で布を撫でた。だが、その瞬間、彼女は自分の胸の中で違和感を覚えた。いつもの淡い光が爪先で踊るはずの感覚が、すっと消えかける。
「ごめん」凛子は言い淀み、もう一度手を伸ばした。しかし手がそこに触れた途端、何も起きなかった。布はただの布で、温度だけが返ってくる。彼女は短く息を吐き、額に手を当てた。針のような冷たさが首筋を這う。
由馬がすっと凛子の腕に手を置いた。「凛子さん?」
「……私、ちょっと待ってて」凛子は喉を鳴らし、冷たい診療台の端に腰掛ける。手は震えていた。数日前から続けて使いすぎたことが、今になって回ってきたような重さ。彼女は自分の体に残った微かな残像を確かめた。力を無理に使っていたときに払ったもの──眠りの深さ、呼吸の落ち着き、筋肉の回復。どれもが薄く、消えかかっている。
「今、使えないってこと?」安田の声に、恵子が答えた。「誰か他に準備する?」
由馬がすぐに立ち上がった。「俺がスープを仕上げる。安田さんはカイロを渡してくれ。恵子さん、麻の布で補強をお願いします」
手際が始まる。人は言葉ではなく動きで意思を示した。恵子は佐倉のエプロンの裾を引っ張り、新しい縫い目を縫い始め、由馬はスープに生姜を足して深みを作る。安田はカイロを抱えて雪の中へ出る準備を整えた。凛子はそれを横目に見ながらも、呼吸を整えることができない。胸が重く、眠りのおとしものがどんどん薄れていくようだった。
「だいじょうぶ、私が見るわ」恵子が言った。「あなたは休んで。繕うことは私達にもできる。これ、あなたが教えてくれたことだもの」
言葉が、静かに診療所の中を満たす。凛子は小さく笑った。それでも、胸の中の不安は消えない。
夜になり、診療所には灯りがともり、窓辺に積もる雪の反射がオレンジ色に溶ける。佐倉の腰は毛布で包まれ、由馬が作ったスープを少しずつ口に運んでいる。恵子はカイロを差し入れ、安田は郵便の配達スケジュールを再調整して夜回りの順番を変更した。皆が自分の手分けをして働いている──凛子の意思が実現しつつあるのを、彼女は手の届かぬところから見ていた。
しかし、そんな安堵が静かに揺らぐ出来事が起きる。夜の八時過ぎ、戸口に一人の青年が雪を踏みながら走り込んできた。顔は赤く、唇はひび割れている。彼は診療所内を一瞥して、詰めかけた人々をかき分けるようにして佐倉に近づいた。
「彩さん、すみません。村から連絡があって……炭小屋で火事が──」青年は息を切らし、言葉が震えた。存在していたのは小さな恐れと即時の行動。凛子の体が、条件反射のように動き始める。人を助けるべきだという衝動が、心を突き抜けた。
「行くわ。私が行く」凛子は立ち上がった。だが、立ち上がった自分の膝に、ぐらりとした不安を感じる。彼女は一瞬、手に力を込めてから、深呼吸をした。汗が背中を伝う。
「凛子さん、ここで休んでて」由馬が制した。「人数が足りない。俺たちが――」
「でも――」凛子の声は、意外に強かった。「私が見ないと。誰が行ったか、何が必要か分からないまま向かわせるわけにはいかない」
彼女は診療鞄を掴み、外套を引っ張り出す。恵子が瞬時に包帯と携帯用の救急箱を鞄に詰めた。安田は外の雪の様子を窓から覗き、唇を噛む。
「凛子さん、準備はちゃんとするんだよ」長谷川が低く言った。彼は年嵩の老漁師で、普段はおだやかだが、目には不屈の光が宿る。凛子は短くうなずき、戸を開けた。冷気が一気に流れ込み、雪の匂いが鼻に刺した。
外に出ると、空は深い藍色で、遠くの雪煙が月明かりを乱反射していた。彼女は小走りに村の方へ向かう。途中、炭のにおいがうっすらと鼻孔に入ってくる。小屋は村外れにある。現場に着くと、夜のうめき声とぱちぱちという乾いた音、そして誰かの焦った声が聞こえた。
中から男が顔を出し、凛子の顔を見て叫ぶ。「頼む、誰か薬を! 煙で意識が朦朧としてるやつがいる!」
凛子は入り口に立ち、ポケットから湿ったハンカチを取り出して急ごしらえのマスク代わりにした。彼女の指先は凍えるほど冷たく、しかし動きは早い。中の薄暗い空間で、彼女は二人の若者と一人の老人を見つけた。老人は黒くすすけた顔で、呼吸が浅い。若者たちは壁にもたれ、息を切らしている。
「まず空気を確保する。外に出せる人?」凛子が