雪原の診療所の看護師は一人で頑張らない 第17話「第15章」
窓の外、雪がまた静かに降り続いていた。白い粒が軒先の光を乱し、診療所の外灯はぼんやりとそれを受け止めている。中はいつもの時間より少しだけ暖かく、古いストーブののどが震えるような音が低く続いていた。テーブルの上には原稿用紙の切れ端、ボイスレコーダー、経済資料のコピーが散らばっている。湯気が立つ湯呑みが三つ、並んでいた。
窓の外、雪がまた静かに降り続いていた。白い粒が軒先の光を乱し、診療所の外灯はぼんやりとそれを受け止めている。中はいつもの時間より少しだけ暖かく、古いストーブののどが震えるような音が低く続いていた。テーブルの上には原稿用紙の切れ端、ボイスレコーダー、経済資料のコピーが散らばっている。湯気が立つ湯呑みが三つ、並んでいた。
「──凛子さん、ちょっと来てください」
里中恵(さとなか めぐみ)が差し出したのは、くすんだアルミの水筒だった。端に小さなへこみがあり、蓋のねじ山は何度も締め直された痕で削れている。表面にはまだ指紋の油が残っているように見えた。
「どなたのですか」
凛子は手袋を外して水筒を取る。手の温度が冷たい金属に伝わり、手首から冷えが戻ってくるのを感じた。水筒を撫でると、洗いたての布の匂いと、古い布団のような匂いが混ざった、生活の匂いがした。
「志奈(しな)さん。先ほど来てくれた人の。お父さんの介護が終わったところで、手放せないって言ってました。聞き取りに来るって言ってたけど、きっと話しにくいこともあると思う」
恵の声は低い。恵は窓際のノートパソコンを閉じ、凛子と水野望(みずの のぞみ)と佐伯浩(さえき ひろし)を見比べた。
テーブルの照明の下で、凛子はふいに自分の力のことを思い出す。布巾で道具を拭くと、その道具をよく使っていた人の疲れが一度だけ、見える形で浮かぶ。とはいえ、それは写真のように詳しいものではなく、瞬間的に迫る、色のついた息のようなものだ。見せられた人の痛みを一度だけ受け取れると知っていた。いつもそれを見てしまえば、助けたくて急ぎすぎる──それが禁忌だった。急ぎすぎると、力は消える。そして私自身が、休めなくなる。
「使わないで」と望が先に言った。「今回は問いかけを試してみようよ。強制じゃなくて、言葉で引き出す方法を。」
凛子は一瞬ためらった。水筒の金属の面が自分の顔をぼんやり映し、目の奥にある仕事の疲れを映し返してくる。志奈さんは診療所の隣村で、最近まで一人で老人ホームの料理をしていたと聞いた。帰りの雪道で倒れた父を抱えて運んだと、話し始めたときにその手は震えていたらしい。
「でも──彼女は、自分のことを話すのが苦手そうだったから」
佐伯が言った。佐伯は町の元教員で、録音技術には無頓着だが、子どもたちに聞き取りを教えた経験を持っている。彼はひとつのボイスレコーダーを手に取って、録音ボタンに指をかけた。
凛子は布巾を引き寄せた。拭けば見えてしまう。見れば手が動く。助けたくなる。けれど今回の目的はドキュメンタリー用の証言を集めることだ。相手の言葉が主体でなくては意味がない。凛子は息を深く吸い、布巾をテーブルに置いた。
「問いかけ、ね」凛子の声はいつもより低く、慎重だった。「志奈さんが話しやすくなるように、順を追って聞こう。何を始めにするか、一緒に考えて。」
望がノートをめくり、柔らかい声音で質問の順を読み上げる。「どうやって、介護の負担が増えたのか。誰の意思で決められたのか。診療所の利用で困ったことは何か──まずは、状況から。感情に踏み込まないで。話したいことが出てきたら、私たちが受け止める。それだけ伝えよう」
二人が彼女に寄り添うやり方を選んだとき、診療所のドアが小さな音を立てて開いた。志奈が入ってきた。肩に小さな黒い犬を抱えている。頬は赤くなっていて、目が少し腫れていた。彼女は水筒をぎゅっと抱え、言葉を探している。
「志奈さん、ここに来てくれてありがとう。座ってください」
恵が差し出した椅子は、座面が補修されていて、冷たい雪の匂いが残っていた。志奈は「うん」とだけ言って腰を下ろした。犬が鼻を鳴らして、暖かい毛布の端に鼻をこすりつけた。
凛子は声を抑えながら、最初の一つを訊いた。問いかけは、彼女が習ったとおりの順序だった。閉ざされた胸を開かせるような、優しい定規を当てるような響きの言い回し。
「お父さんと過ごした最後の夜のこと、差し支えなければ教えていただけますか」
志奈はしばらく黙ってから、ぽつりぽつりと話し始めた。火の止まったこたつ、夜中に起きてしまった父、電話の呼び出し音が鳴った日のこと。凛子は、言葉の端々にある小さなためらいや手がこわばる瞬間に注意を向けた。道具を拭くことで得られる光景とは違う。これは声と息と沈黙が織りなす生の証言だ。
「でもね」と志奈は続けた。「病院に連れて行く? って言われた時、私、どうしていいか分からなかった。バスはないし、タクシーは高いし。診療所に相談したら、『受け入れはできるけど夜間は制限がある』って言われて。多分、仕方ないって分かってるんです。だけど、あの日、あの時、私の選択肢は本当に少なかったんです」
その言葉は、資料の一行一行よりもずっと重かった。凛子の胸の奥がぎゅっと締めつけられた。能力で見れば一瞬で「疲労」という映像を受け取れるかもしれない。でも、今、志奈の言葉には体温があり、迷いがあり、後悔があり、声の波形があった。聞き取りは、それらをそのまま記録できる。
録音が進む。佐伯は時折うなずき、望は目を細め、恵は資料にメモを書き込む。凛子はあえて書かない。見えない部分を、言葉で引き出す訓練をしているのだ。だが診療所の外では、別の緊急が動いていた。集めていた別のインタビュー原稿を整理していた田島誠(たじま まこと)が息を切らせて入ってきた。
「すみません、これ見てください」彼は震える手でプリントを差し出した。そこには市の公文書の写しがあった。大きな見出しの下に、診療所の名前が太字で書かれている。「地域公共サービス評価の第一次対象施設──診療所A」見出しの下に日付。来月、評価会議があると。
部屋の温度が一瞬下がったように感じた。志奈の声が途切れ、犬が鼻を鳴らした。凛子は本能的に布巾へ手を伸ばした。水筒を拭けば、志奈の疲れが視える。視えれば、ここで動ける。だが手を動かすと、いつもの代償が押し寄せる。急いで人を助けようとすればするほど、その力は消え、彼女は休めなくなる。休まない身体は、いつか折れる。
「これを、どうにかしなきゃ」望が言った。「でも、評価って数値で出されるんですよね。効率とか利用率。私たちは、数字でしかないものに人の暮らしを委ねられないってことを、この資料でどう示すか──」
佐伯がプリントを受け取り、しわくちゃにしないようにそっとページをめくった。「志奈さんの話を記録して、来月の会議で提出するか。だけど、提出ってだけじゃなくて、住民の前で話してもらうことも考えたほうがいい。本人の選択肢を取り戻すっていう形で」
志奈の手がぎゅっと水筒を握った。「私、人前で話すなんて考えたことなかった。でも……もし、私が話すことで誰かが助かるなら」
その目にはまだ迷いがあったが、そこに小さな決意の火が灯った。凛子はその火を見て、胸が温かくなった。力を使わないで引き出せた言葉。これが「問いかけ」で得たものだ。彼女はほっとしたように息を吐いた。
だがその夜、凛子は力を使わなかった代償とは別の疲労を抱えていた。昼間の聞き取りに集中した分、診療所の雑務が積み残され、夜になってから往診を二件こなした。人の言葉