星降る畑の農園主は壊れた関係を直しすぎない

星降る畑の農園主は壊れた関係を直しすぎない 第3話「第2章」

納屋の影が長く伸びて、星が畑の縁からほうきで掃いたように降りていた。藁の匂いと油のにおいが混ざった風が、開け放した大きな扉から冷たく入ってくる。卓袱台代わりの作業台の上に、古い鍬(くわ)と金属の柄の先が黒くなった砥石が並んでいた。砥石を抱くように座るのは、遠縁の研修生、川瀬紗菜。紗菜の前髪は汗で少し固まり、手首には子どもの頃からの小さな傷が幾つかかったまま光る。

納屋の影が長く伸びて、星が畑の縁からほうきで掃いたように降りていた。藁の匂いと油のにおいが混ざった風が、開け放した大きな扉から冷たく入ってくる。卓袱台代わりの作業台の上に、古い鍬(くわ)と金属の柄の先が黒くなった砥石が並んでいた。砥石を抱くように座るのは、遠縁の研修生、川瀬紗菜。紗菜の前髪は汗で少し固まり、手首には子どもの頃からの小さな傷が幾つかかったまま光る。

「もっと、ゆっくりでいいんですか?」紗菜は訊く。砥布を金属に押しあてる手つきには緊張が混じっていて、動きが固い。彼女の呼吸は浅く、舌先が唇をひん曲げる癖が出ている。

星野瑠璃は、作業台の向こうに腰をかけ、両手を膝の上で組んだまま紗菜を見ていた。月明かりが紗菜の手の甲を薄く洗う。瑠璃の声は低く、畑の夜風と同じくらい静かだった。

「急いで直そうとすると、見えたものが消えるんだよ。磨くのは、相手が見えるのを待つためでもある。見たら、どうするかを自分で考える時間を残すために」瑠璃は言った。

紗菜はまっすぐ瑠璃の目を見返した。「でも、見えた疲れを放っておくのは、放置と同じに思えます。直してあげたほうが楽になるなら、直していいと思うんです」

「それと、直してしまうことは違うこともある」瑠璃は肩越しに、外の星空をちらりと見やった。「見えるのは一度きり。消したら、その人が自分で選べる機会も、一度失われる。誰かのために急ぐということは、誰かの選択を奪うことでもあるんだよ」

紗菜はそれでも手を止めない。砥石が金属を擦る音は、夜の静けさを割る小さな棘になった。布の繊維と金属が触れる音、指先の皮膚がこすれるひりついた感覚。紗菜の手は最初の数回、ゆっくりとした円を描いていたが、想いが高ぶるようにだんだん速度を上げた。

瑠璃の視線はただそれを追っていた。掌の温度が少し上がる。彼女の能力はいつもそうやって、触れているものがこれから使う人の疲れを一度だけ映す。静かな光が、鍬の刃の縁にひそやかに生まれた。

それは、生者の影とは違う。刃先から淡い硝子のような色がにじみ出し、そこに輪郭のようなものが浮かぶ。少し首をかしげた中年の女性の姿だ。肩はどこかねじれていて、足取りが重い。小さな子どもの靴が脱げかけている。彼女の背中には、長年抱えてきた仕事の重さがうっすらと重なっていた。瑠璃はその像を目で追い、胸の奥がぎゅっとなるのを感じた。

「見える?」と紗菜が訊いた。動きは早い。布の色が繰り返す擦れる線で白くなる。

瑠璃は小さく頷いた。「うん、見えるよ。名前は……まだ分からない。だから、聞くのは直接その人にしてほしい。私がここで全部説明するんじゃない。あなたが、その人の前に立って、自分の言葉で手を止められるなら、それがいい」

紗菜の表情に、迷いと焦りが混ざる。まだ若い彼女は、たぶん「助ける=直す」という単純な式で世界を見てしまう。瑠璃はそれを知っていた。だから、ゆっくりと彼女の手を取るわけでもなく、ただ背中越しに見守るだけでいた。

しかし紗菜の動きは止まらなかった。むしろ加速した。布が鍬の刃に乱暴に擦り付けられる音は、以前より鋭く高くなる。金属の縁を過ぎたとき、刃先に宿っていた微細な光がふっと、引っ込んだ。

その瞬間、時間が短く伸びたように感じられた。瑠璃には、スローモーションがかかった世界が見えた。紗菜の爪先に付いた泥が一滴落ちて弾ける。彼女の手首の筋がぴくりと硬直する。布と金属が擦れるたびに出る火花が、冷たい星のように散る。だが、刃先にあったはずの人の姿は、牛乳を水に流したように、もやもやと広がって薄れていった。輪郭は消え、硝子の色は吸い込まれるように消失する。

紗菜の手は、そのまま磨きを止めた。砥布から伝わる振動が急に無くなって、室内の空気が重くなった。紗菜の顔があせた。目が潤む。

「消えた……」小さな声。唇が震えている。

瑠璃はゆっくりと立ち上がって、紗菜の前に来た。刃先を受け取ってそっと向こう側に置く。手のひらの静かな温度が、紗菜の緊張に触れる。

「消えること自体は、悪いことじゃない。見えるかどうかは、物に触れたとき、その場の空気と相手の気配で決まる。でも、急いで消したときの影響は違う」瑠璃は言葉を選びながら続けた。「急いだんじゃなくて、急がせてしまった。見せられた疲れを、本人が受け止める時間を奪った。あなたが直そうとしたのは、優しさのつもりだっただろうけど」

紗菜は顔を伏せた。細い体が震えている。指先が砥布の縁を握って、爪の先が白くなった。

「でも、それで……本人は分からないんじゃないですか。見えなくなったってことは、楽になったんじゃないですか。直してあげたら、あの人は助かるんじゃ」紗菜の声には、弁解と、まだ幼さの残る正義感が混じる。

瑠璃は、一度だけ息を吐いた。夜の冷えがのどを通って、胸が少し鳴るような気がした。

「直すのと、選ぶことは違うんだ。見せることで、その人に息をつく余地を与えることがある。自分が疲れていると気づいて、自分で少し手を止める。その一歩を誰かが消してしまったら、『休む』という選択肢そのものを奪うことになる。もちろん、誰かを助けたい、という気持ちはいい。でも、助け方はひとつじゃない」

目の前の紗菜は、まだ理解の線を引きかねている。瑠璃は手を紗菜の肩に置いたが、力は入れない。握手のような温度だけを伝える。

「それに、急いで相手の疲れを『直す』と、私の力は弱くなる。今日は見えたものが消えた。明日も同じように見えるとは限らない。大事なのは、何のために見せるかってこと。先に答えを決めてしまったら、見せる意味が薄くなるんだよ」

紗菜は唇を噛んで、それからゆっくりと顔を上げた。目には星の光が映り込んでいるけれど、そこに涙が宿っていた。

「失敗したら、どうなるんですか?」紗菜はやっとのことで問うた。

「失敗って何を指してる?」瑠璃が返す。静かな問いかけだ。

「私が直してしまって、本当に誰かを苦しめてしまったら。私がやらなきゃ、って思って動いたことで、逆に傷つけることになったら」紗菜の声は震えて、言葉が細かく切れていった。

瑠璃は肩をすぼめ、納屋の外に目を向けた。星が一つ、しばらくしてから流れた。

「誰かを傷つけることを恐れて、何もしないのも選択の一つ。でも、何もしないことも誰かを傷つける。だから、どちらかだけが正しいわけではない。よく考えて、手を出すこと。出すなら、相手がそこから自分で折り合いをつけられる余地を残すこと。急いで全部を消すようなことだけは、しないでほしい」

その夜、紗菜は納屋で雑魚寝をした。薄い毛布をかぶって、星空の見える小さな窓から冷たい空気が入る。だが瑠璃は眠れなかった。風が唸るたびに、体の隅々がざわつく。胸のあたりに小さな火がついたようで、瞼(まぶた)を閉じても明かりがちらつく。眠気ではなく、何かが止まらなくなるような感覚だった。

夜の二時、瑠璃は立ち上がって畑まで歩いた。足元の土は冷え、星が畝(うね)の間に散っている。手には何も持っていない。だが、空気には小さな振動が残っている。誰かの吐息が微かに混ざっているような気がして、瑠璃は目を閉じた。

あの日、紗菜が刃先の疲れを急