星降る畑の農園主は壊れた関係を直しすぎない

星降る畑の農園主は壊れた関係を直しすぎない 第26話「第24章」

夕暮れの風が畑の葉を擦る音が、村の広場に重なっていた。星降る畑の端に設けられた仮設の演壇は、古い木箱を二つ並べただけの粗末なものだ。浅見小夜は、両手に木の柄の一部が欠けた鍬を抱えて立っていた。鉄の部分を拭くための濡れた布が、懐かしい土の匂いを放つ。背後では、伊藤まりが印刷した十枚ほどの紙を配り、榊原健太が投票箱の鍵を確かめている。

夕暮れの風が畑の葉を擦る音が、村の広場に重なっていた。星降る畑の端に設けられた仮設の演壇は、古い木箱を二つ並べただけの粗末なものだ。浅見小夜は、両手に木の柄の一部が欠けた鍬を抱えて立っていた。鉄の部分を拭くための濡れた布が、懐かしい土の匂いを放つ。背後では、伊藤まりが印刷した十枚ほどの紙を配り、榊原健太が投票箱の鍵を確かめている。

「小夜さん、始めるよ」と健太が言うと、周囲のざわめきが一瞬だけ吸い込まれた。夕闇の先に畑の縁がオレンジから藍へと落ちていく。その境目に、無数の小さな白い光が浮かんでいる。星のように見える光は、夜になると畝の上にちらりと現れる──この村では昔から「星降る畑」と呼ばれてきたものだ。今は市が打ち出した開発計画によって、その光が商品化されそうになっている。光はきらめく一方で、どこか薄く、彼らの心を鋭くする。

浅見は布を握りしめ、鍬の頬を撫でるように拭った。布の繊維が鉄に触れるたびに、かすかな暖かさと短い光の波紋のようなものが走る。彼女の小さな力は、手入れした道具や整えた食材にだけ宿る。擦ると、その道具を普段使う人の疲れが「一度だけ」見える形になる。見えると言っても幽霊でも予言でもない。ほんの一瞬、相手の横顔と手足の重さが自分の視界に挟まれて、言葉にならないため息が聞こえるようなものだ。見せられた者は、自分の疲れに気づく。多くは、そこで休むことを選ぶ。

だが――と浅見は手元に伝わる馴染みの違和感を思い出す。急いで他人を「救おう」と力を振るえば、その光はそっけなく消える。力が剥がれると同時に、浅見自身が眠れなくなった。以前、一度に多くを見せようとしたとき、彼女は三夜も眠れず、肩の奥が凍るように固まった。今でも、たまにその夜の呼吸の重さが胸を掴む。だから今夜は、使いどころを選ばねばならない。

「まずは、案を聞いてください」と浅見は低く言った。声は畑の星とは違って濁りを帯びている。彼女は鍬を置き、代わりに健太が作った紙の表を指差した。伊藤が用意した資源分配案──共同の輪番表、作業負担を軽くするための共同基金、余剰物の売却による配分案──が大きな白紙に細かく書き込まれている。それは数字と名前の並ぶ現実的な書類で、温かさや粉の匂いはないが、疲れを均すための道具にはなり得る。

「私が全部を見せて、あなたたちに答えを押し付けることも出来る」と浅見は言った。「でも、それは壊れた関係を直しすぎることになる。私が見せてあなたたちの決断を奪えば、翌日には誰もが安心して眠れなくなるかもしれない。私は、あなたたちに選んでほしい。疲れを見て、誰がどう休むか、誰がどう続けるかを自分たちで決めてほしい」

会場の端から、小さな怒声が立った。平岡太一だ。彼は早朝の出荷場で働く勤勉な中堅で、開発がもたらす雇用を支持している。「どうせ話し合いに時間がかかる。市の提案は効率がいいんだ。星だって商品になれば、金になる!」と平岡は声を張る。彼の後ろには、スーツ姿の末広という名札をつけた男が立っていた。末広は市から派遣された開発担当で、立て札や図面を胸に抱えている。その表情は商談の場で鍛えられたものだ。疲れに似た何かは、彼の瞳にも薄く刻まれていたが、彼はそれを使ってはいけないと学んだ者のように見えた。

平岡が更に詰め寄る。「小夜さん、あなたの“見える”っていうのは誰のためなんだ。結局ここで暮らす俺らの生活を変えてくれんだろ?」

浅見は鍬を一度握り直した。手のひらに土の冷たさが残る。彼女は答えようとしたが、近くに座っていた佐久間良雄が先に立ち上がった。佐久間は八十を超えたが、村のことを考える眼差しは鋭い。彼の手には、小さく擦り切れた弁当箱があった。佐久間は浅見の目を見てゆっくりと言った。

「俺はもう若くはない。夜半に畝を見に行くことも減った。でも、あの星の下で少しでも安心して朝を迎えたい。案を見せてもらった。俺は輪番で朝の見回りを減らしてもらおうかなと思う。誰かが代わりにやるなら、材料の分配も公平にしてほしい」

浅見は佐久間の弁当箱を受け取り、布で拭った。布が金属に擦れると、ふっと視界に佐久間の若い頃の夜の姿が挟まる──畑の端で一人腰を冷やしながら、朝まで虫の声を聞いている顔。その短い挿画が、佐久間の手の震えをゆるめた。佐久間は目を細め、そして笑った。「見せられたって言うより、自分で思い出したな」彼はそう言って、弁当箱を抱き直した。

その一瞬を見て、浅見の中に小さな安堵が広がった。使い方が上手くいけば、彼らは自分の疲れを見て、自分で休むことを選べる。だが、平岡が顔をしかめ、末広に囁くのが聞こえた。「票が足りなければ、向こうの条件に飲み込まれる」。声には、まだ見ぬ勝利への急ぎが混じる。

場が再びざわついたとき、伊藤まりが大きな地図を広げた。その地図には、共同基金の想定収支と、当面の分配方法、そして自律的な監視委員会の案が詳しく描かれている。健太が指をさし、説明を補う。「外注を減らして、出荷の手間は三つの班で回します。余った利益はまず共同基金へ。基金は生活困窮への支援に優先的に回す。ただし、班を抜けたくなった人は、必ず代わりの担当を見つけるか、資金の一部を譲ることで調整します。強制はしない」

「お前たち、そんな甘い話で回るのか」と平岡は嘲った。末広は間合いを見て口を開いた。「市は公平な選択を尊重します。ただし、規約があります。今回の住民投票に設定された“出席率条項”です。指定の投票率に達しない場合、市は『暫定管理権』を行使し、事業の権利を一時的に第三者へ移すことが出来ます。その場合、共同での再構築のチャンスは大きく損なわれます」

その言葉が広場を凍らせる。出席率条項──聞いた者の顔が一斉に引き締まる。もし住民があえて参加を控えれば、外部の手に事態が流れる。だが参加を促すために小夜が力を濫用すれば、彼女の力は消え、彼女自身は眠ることすら出来なくなる可能性がある。どちらも小夜の望む「守られた選択の継承」ではない。

浅見の胸に、あの夜の感覚が静かに広がった。力が、もっと大きく、もっと明確に答えを与えれば楽なのだろう。全員に疲れを見せ、一気に休ませる。だがその先に残るのは、依存と決断の消失だ。彼女はもう一度、鍬ではなく自分の空いた手の平を見た。手の甲の皮膚に僅かな火照りがあった。力を使おうとするたびに、それは小さな警鐘となって彼女を揺さぶる。

「見えるのは、あくまできっかけだ」と浅見は言った。声は震えていたが真剣だ。「私が見せることで誰かの選択が奪われるなら、それは直しすぎることになる。今夜は、私がここで全てを決めるつもりはありません。案を見て、話して、投票してください。私たちはその結果に従います。ただし、もし票が割れて出席率が足りなくて、外部の手が入るなら──そのときは、私も自分の代わりに立ち上がる人を一人だけ指名します。過去の夜、私が無理をしたのは、誰かの代わりになろうとしたからです。今度は代わりを育てたい」

平岡の顔に一瞬の戸惑いが走る。末広は冷たく笑うが、明らかに予想外の反応だ。佐久間が口を開いた。「なら、俺は今日の朝番を外してくれ。若い奴らに朝を任せる。代わりに、資金から二割を俺に回して