星降る畑の農園主は壊れた関係を直しすぎない 第19話「第17章」
草の匂いと、夜露に濡れた畝の冷たさが指の腹に伝わる。奥澤楓は軽く息を吐き、懐中電灯の光を畝に沿って滑らせた。星々はいつもより低く、畑の上に広がっていた。遠くの町灯りがやわらかく混ざり、畝の溝が銀の筋のように浮かぶ。
草の匂いと、夜露に濡れた畝の冷たさが指の腹に伝わる。奥澤楓は軽く息を吐き、懐中電灯の光を畝に沿って滑らせた。星々はいつもより低く、畑の上に広がっていた。遠くの町灯りがやわらかく混ざり、畝の溝が銀の筋のように浮かぶ。
「こんなところまで来るとは思わなかったです」
松島隼人は肩にぶら下げた三脚を揺らしながら、メジャーをしまう。測量服のポケットの縫い目に手を突っ込み、青年の息は白く小さく乱れていた。彼の頬に残る土の微粒子が、月明かりにちらつく。
「事務所の中じゃ星は見えないからね」楓は笑って肩を竦める。声の端に疲労があった。先週、彼女は力を使いすぎて、眠りが浅くなったままだ。目の奥に張りつくような重さがあり、昼は大丈夫でも夜になると体が起きてしまう。だがそれを口に出すつもりはなかった。言葉にすると、誰かに治してほしいと求めることになるから。
「ここだと考えやすいんです。機械のレンズ越しに見る星が、ちょっとだけ違って見えて」隼人は三脚の先に載せた光学器具を示した。小さなプリズム、レンズに映る星は楕円形の点となって揺れている。彼の指先は細く震え、爪の間に泥が黒く溜まっている。
楓は腰を下ろして、彼の差し出したものを受け取った。機械は冷たく、金属の縁に冬の手のひらの温度が反射する。表面には指紋と微かな擦り傷、長年使われてきた匂いが滲んでいた。楓は布袋から小さな布を出し、油をほんの一滴布に含ませて、優しく金属を拭きはじめた。指先の圧力を一定に保つと、布はしわを作りながら滑る。星の光がレンズの縁でちらつき、布の繊維に小さな銀が集まる。
「ただ見せるだけにして。直そうとしないこと」楓は言った。言葉は低く、厳しかった。隼人は目を伏せ、すぐに分かったように頷く。
楓の掌が金属に触れたとき、いつもの感覚が訪れた。薄い針のような冷たさが手の内側を走り、目の前の物質が一瞬だけ別の記憶を宿す。布の繊維が震え、金属の表面に薄い蒼白の膜が浮かんだ。その膜はすぐに形を取り始め、過去の一コマのような輪郭が現れる。机に突っ伏した背中、夜中の蛍光灯の下で数値を見つめる瞳、溜息交じりに握られたボールペン。隼人の姿だが、今ここにいる彼よりもずっと小さく、重力に押し潰されている。
映像は静かに、しかし明瞭に語った。息遣い、擦れる紙の音、ボールペンの先が走るたびに沈んでいく背中。隼人は目を見開き、手元の機械を握る指が白くなる。楓の布が最後の一筋の光をそっとぬぐい去ると、幻は消えた。金属の表面は元通り、冷たく光るだけだった。
「見えましたか?」楓が尋ねる。風が稲の葉を揺らし、星の瞬きが畑の向こうで連鎖する。
「……はい」隼人の声が震えた。「これが、僕の……。こんなに、ずっとこなしてきたと思っていませんでした。夜中の測量報告、残業申請を切って——父さんも、同僚も、みんな同じ顔で……」
「だから、直してはいけない」楓は静かに言った。「直すっていうのは、誰かの選択の余地を奪うことにもなる。それを避けたいから、私は見せるだけにする。あなた自身に見せる。自分の疲れを、はっきり見ること。それだけで選べることがある。」
隼人は膝に手を置き、しばらく黙った。遠くから小さなクラクションの音が聞こえ、町の時計の針が夜を刻む。彼の肩に、いつの間にか同僚の背負った責任や、上司からの指示の重さが影を落とし始めていた。
「でも、役所は期限を急いでいる。稲刈りの後すぐに境界の杭を入れるって。測量報告の締切は——」隼人は言葉を切った。口元を噛みしめ、指先で空気を探る。
楓はゆっくりと立ち上がり、畝の端に積んであった古い毛布を取りに行った。毛布は少し湿っていて、藁の匂いが混ざる。彼女はそれを隼人に差し出しながら、小さな紙片を取り出した。そこには手書きで地番と日付、事務所の担当部署が書かれている。
「一週間だね」楓は言った。「それで、あなたは何をする?」
隼人は息を吸って、紙をじっと見た。視界の端で、星が一粒大きく流れ落ちるのが見えた。心臓が一度、強く跳ねる。彼は手を伸ばし、紙を折り畳むようにして自分の胸に押し当てた。
「強く言うことはできます。職場で——データが示す代替案を提示してみせる。けれど、それだけじゃ足りないかもしれない。楓さんの力で、同僚の眼に僕の疲れを見せられたら、変わるかもしれないと考えてしまって……」言い訳のように彼は続けた。
楓はその言葉に冷たいものを感じた。手がほんの一瞬、布袋の中で固くなる。彼女は以前、助けを急いだことがある。町会の話し合いで、声を荒げる人の滑らかな手に力を使い、その場の空気を一変させた。だが翌日から、彼女の眠りは断続的になり、心は休まらなくなった。力は消えはしなかったが、休めないという代償が体を蝕み、幾晩かは夜通し畑を歩き回った。今回は、同じ過ちを繰り返すつもりはなかった。
「あなたのために使う分には、使うよ」楓は答えた。「でも人を急かすために、場でばらまくんじゃない。力は、物に一度だけ真実を映す。映したら、その物はもう戻らない。強制する道具にはならない。分かる?」
隼人は頷く。だが彼の瞳にはまだ迷いの影があった。そこへ、遠くの道路の砂利を踏む音が近づき、白いライトが畑の端に落ちた。車のドアが閉まる音とともに、役所のシャツの膨らみをした男が現れた。越智誠──市の開発課の担当者だ。彼は手にファイルを抱え、懐中電灯を楓たちに向ける。
「松島君、報告書だ。明朝、一緒に資料の最終チェックをしてくれ」越智の声は効率的で、寒かった。彼は隼人を気にも留めず楓に笑いかける。「夜遅くにおじゃましてすみません。星でも見ていたのかい?」
隼人の顔が真っ赤になる。隣で楓は布をしまい、冷たい地面から立ち上がる。越智の視線は厳しく、スケジュールを刻む時計の音のように正確だった。
「少しだけ考えたいんです」隼人は言った。言葉は細く、必死さを帯びていた。「でも、同僚を説得するには——あの、楓さん。もし可能なら、彼らにも見せてほしい。建設課の連中には、数字と図面だけじゃ届かないんです。疲れているって、見える形で分かれば……」
楓は越智の顔を一瞥した。越智は笑みを保ちながらペン先でファイルを叩く。効率を求める手つきには躊躇がなかった。楓の胸に冷たい針が刺さるように痛んだ。星は畑の上でいつもどおり輝いている。彼女は深く息を吸い、手のひらに残る布の匂いを嗅いだ。
「それはできない」楓ははっきりと言った。「あなたがそれを望むなら、使ってしまえば簡単だろう。でもその代わり、私自身が休めなくなる。今回で一度見せたら、それが消えるかもしれない。私はそれを人のために浪費したくない。」
隼人は言葉を失った。越智の顔に微かな嫌味が走り、彼は腕時計をちらりと見た。
「だったら、自分でやってみる」隼人が決然と言った。「強引に見せるつもりはありません。見せるつもりがあるのは、自分と仲間だけです。数字で戦う。僕は事務所で得た図面と、夜にここで見た星を合わせた案を作る。もっと土を生かす提案を出す。制度の中でできることを探すんです。楓さん、あなたの力はもう一度は貸してくれますか。僕自身で、説得できるように使いたい。」
楓は隼人の瞳をじっと見