山小屋郵便局の修理師は町の記憶を残す 第8話「第7章」
朝の空気は山の色をしていた。薄く澄んだ青に、煤けた木の匂いと、誰かが焚いた灰の残り香が混じる。直は山小屋郵便局の縁側に腰掛け、手のひらで古い郵便受けの真鍮の取っ手を撫でていた。冷えた金属が少しだけ温かくなる手触りを返すと、目の前に短い映像のようなものが差し込んだ。
朝の空気は山の色をしていた。薄く澄んだ青に、煤けた木の匂いと、誰かが焚いた灰の残り香が混じる。直は山小屋郵便局の縁側に腰掛け、手のひらで古い郵便受けの真鍮の取っ手を撫でていた。冷えた金属が少しだけ温かくなる手触りを返すと、目の前に短い映像のようなものが差し込んだ。
濡れた足跡、袋を抱えた若い女性の背中。彼女の手が震え、腕に力が入るたびに取っ手が軋む。息づかいが細く、靴底に泥が詰まる。直はその疲れを、一度だけ「見る」。見るというより、取っ手を通して届いた物語が胸の奥に軽く波紋を作るのだ。映像は一度きりで、消えると戻ってこない。直は深く息を吸い、顔を上げた。誰だったか、その女性の顔を思い出せない。だが疲れは確かにここに残っていた。
「また朝から見てるのかい、直さん?」
声に振り向くと、梅沢が杖を突きながら歩いてきた。長年この町を見てきた老齢だが、背筋はまだ真っ直ぐだ。彼の視線は郵便受けに落ちて、ゆっくりと笑った。
「手入れするってのはな、直。物を直すだけじゃねえ。そこに紐づく人の暮らしも一緒に扱うことだ。お前さんは、それを見られるんだろう。ありがてえ能力だが、気をつけろよ。何でもかんでも背負っちまうな」
「わかってますよ、梅沢さん。でも、ほっとけないんです」
直の声は小さい。ほっとけない──それが直を駆り立てる原動力だった。だが梅沢は黙って頷き、物憂げに空を見上げた。
「若いもんが動きたいっていう。やらせてやれ。みんなでやれば、ずっと長く続くんだ」
その言葉は、後を引くものだった。直はその日、郵便局周りの小屋の雨樋を直すつもりだった。だが通りに立つと、向こうから蓮が自転車でやって来るのが見えた。中学生の蓮は、朝日の中で伸び上がりながら大きな声をあげる。
「直さん! みんな集めてきたよ。今日、みんなで郵便局直すんだ!」
蓮の後ろには、数人の顔が並んでいた。彩香、庄司、町の消防団の若い連中。彼らの手には刷毛や釘箱、缶のペンキ。蓮が作ったビラをあちこちに貼って、今日の午前中に一気にやろうと集まったらしい。直は胸が踊るのと同時に、胸の奥に冷たいものを感じた。手を出したい。だがこの日は、別の依頼が入っていた──町外れのパン屋の屋根の雨漏り。焼き立てパンを濡らしたくないという切羽詰まった声だった。
直は一瞬、両方を思い描く。粘りのある木の匂い、ペンキの刺激。誰かの疲れを見てしまった後は助けないではいられない。自分の力で一度にたくさん直せば、みんなが楽になる。だが胸のどこかで梅沢の言葉が反発する。無理は続かないと。
「直さん、一緒にやろうって頼んでるんだよ。無理しないで」
蓮が真剣な目で言う。若い手が刷毛を握りしめる。直は迷ったが、パン屋のことを思い浮かべた女性の顔が頭を離れない。彼は小走りでパン屋へ向かった。
屋根に登ると、瓦と土が湿って滑る。直は慎重に踏みしめ、裂けたコーキングを詰め、古い板を張り直していった。作業は確かに効いた。パン屋の女将は笑って直の手に小さな袋を押し付ける。中身は温かい黒糖パン一個。直はそれを受け取り、口に入れると、ほのかに甘さが広がった。手入れによって彼の能力は作動し、女将が客のために朝早くから戦ってきた日の一つの断片が直の視界に差し込む。短い映像が現れて、直の胸を締めつける。女将の腕の筋、眠そうな目、子どものために少しばかり多く包んだパンの包み。疲れが、確かに見えた。
喜びと同時に、直は気がついた。腕の節々がいつもより重い。目の奥が霞んでくる。作業を続ける意欲が滑らかに薄れていく。彼はペンチを握りしめたまま、冷たい風に当たっていた。無理をするほどに力は薄れていく。彼は知らなかったわけではない。だがこの日、欲張ってしまった。
降りてからの数時間、直は休むことができなかった。仮眠しようと布団に入っても、まぶたは重たいだけで眠りに落ちない。身体は疲れ果てているのに、頭だけが冴えている。何度も起きては窓の外を見て、町の方角に目をやる。蓮たちの声が時折風に乗って聞こえる。誰かが笑い、誰かが刷毛を交換する音。直はその声を聞くと胸がざわつき、布団を抜け出してしまう。
「直さん、大丈夫? 顔色が悪いよ」
彩香が心配そうに差し入れの水を持って来た。彼女は直の世話役のようになっていて、直が顔をしかめると眉を寄せる。直は首を横に振るが、身体がだるく、言葉に力を込められない。
「無理すんなって言っただろ、直さん。あなたばかりじゃないんだって、分かるでしょ?」
彩香の言葉には叱責が混じっていた。だが直はその言葉に救われるような気もした。自分がやらねば、という衝動を押し留めるための言葉だ。直は小さく笑って、ゆっくりと立ち上がる。蓮の方へ向かうと、彼は木の柵に腰掛けてペンキを乾かしていた。
「どうだった? パン屋さんは直った?」
「直った。だけど、俺がやらなくても……お前らで十分だろう?」
蓮は首をかしげる。直は自分の手が震えているのに気づいた。無理に力を出したせいで、彼の能力はもう働かない。触れた物からはもう疲れが見えない。いつもなら、その一瞬の映像が次々と渡ってくるのに、今は空っぽだ。代わりに眠れない疲労感だけが彼を縛っていた。
「やってみたかったんだ。みんなの顔が見たかった」
蓮は真っ直ぐ直を見返した。何かが膨らんでいるような、幼いが確固たるものだ。
「直さん、今日は俺たちでやる。あなたは休んで。手伝って欲しいのは、指示と教え方だけだ。やり方を教えてくれれば、明日からも続けられるんだ」
直は驚いてその目を見返した。若者の瞳に揺るぎはない。彼自身が長年頼りにされてきた「直す人」像を手放すことは、予想以上に難しかった。自分が居なくなれば壊れる、と信じていた一面があった。しかし蓮の言葉は、手放すことが可能であることを示している。
午後、通りは小さな熱に包まれていた。塗料の匂い、木屑の粉じん、釘が打たれる乾いた音。子どもたちの笑い声がこだまする。直は縁側からその光景を見ていた。クローズアップで見ると、蓮の手はまだぎこちない。だがその手は確かに動いている。彩香は古い看板を磨き、庄司は梯子の上で釘打ちのコツを掴んでいた。彼らの手の動きを見ていると、直は胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じる。
「直さん、見て! あそこ、みんなで表札を直してくれたんだ」
梅沢が肩越しに指差す。表札は赤いペンキで塗り直され、古いひび割れが埋められていた。そこにまた、新しい傷と新しい使い方の痕跡が刻まれていく。直は手が空っぽでも、何かが満たされていくのを感じた。彼がいなくても、この町は記憶をつないでいくのだ。
しかし夕方、通りの片隅に黒いスーツの車が止まると、空気は一瞬で重くなった。車から降りた男は名刺一枚を差し出し、流暢に説明を始めた。河辺と名乗るその人物は、効率化と合理化の言葉を滑らかに紡いだ。無人配送の模型の写真、統計データのプリント。中心へ集約すればサービスが向上し、経費が削減できる──と。
「村の皆さんにとっても、良いことばかりですよ。老朽化した郵便局を廃止し、新しい拠点へ統合する。日用品の配達はドローンと契約で対応します。地域の負担も軽くなります」
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