肖像画の悪役令息は恋愛フラグを無視する

肖像画の悪役令息は恋愛フラグを無視する 第6話「第5章」

庇護堂の屋根から煙がゆらりと上がる。切り出したばかりの松の匂いと、焼きたてのパンの甘い匂いが混じった空気が、村の小広場を満たしていた。集まった人々の声は低く、しかしどこか安堵を含んでいる。木製の祭壇には一枚の古びた布がかけられ、そこに取り出された羊皮紙がひらりと広げられた。文字は滲み、欄外には先祖の手が走り書きした括弧が重なっている。

庇護堂の屋根から煙がゆらりと上がる。切り出したばかりの松の匂いと、焼きたてのパンの甘い匂いが混じった空気が、村の小広場を満たしていた。集まった人々の声は低く、しかしどこか安堵を含んでいる。木製の祭壇には一枚の古びた布がかけられ、そこに取り出された羊皮紙がひらりと広げられた。文字は滲み、欄外には先祖の手が走り書きした括弧が重なっている。

「では、ここに示された『婚姻儀式の付帯規程』について、再解釈の合意を取ります」
コルは羊皮紙に触れずに言った。彼の声は低く、村の人たちの間を静かに流れた。腕に巻いた黒い布が風に揺れる。彼はいつものように礼服を着ているわけではない。必要悪役の衣装は袖の端にあるだけで、彼の顔に浮かんだのは疲労よりも決意に近い表情だった。

「文面の矛盾はここです」
ユグが灯りの下で指を差した。ユグは村の記録係で、細い眼鏡が紙に反射する光を小さく割っていた。「第一条が、村からの供出として『令息一名を宮廷に差し出す』と定める一方で、第三条は『当該者の婚姻は本人と同意する者が選び、外部からの強制は認めない』とある。どちらを優先するかは書かれていない」

人々の顔がばらばらに動く。村長ミルドは手を組み、額にしわを寄せた。目の端に、小さな女の子が座っているのが見えた。彼女はこれからのことをまだ理解していない。ただ、色とりどりの糸で編んだ冠を弄っている。

「古い規程は、過去の政治的な力関係を反映したものだ。だが今、村として何を守るかを決めるのは我々だ」
リアナが立ち上がる。彼女の声にはいつもの火がある。コルが初めてここに踏み入れたとき、彼女は冷たい視線を向けていたが、今は肩を並べ、窓の薄絹を揺らす風を受けている。「強制を続ければ、若者は町を去り……村は維持できない。それに、供出という言葉は、いつの間にか随分重くなりすぎた」

コルは羊皮紙に近づくと、口元で小さく呟いた。古い言葉を読み替える鍵は、文言そのものではなく「当事者」の定義だ。彼の力――制度文書の矛盾を当事者全員の合意で読み替える交渉能力は、条文の中に潜む隙間を見つけ出す。だがそれは魔術のように自在ではない。全員の同意、という条件が根幹にある。

「ここで言う『当事者』を、実際に影響を受ける者すべてと再定義します。供出の名目で選ばれる可能性のある者、その親族、そして村コミュニティ全員の合意があれば、『任意の参加』という読み替えを適用する」
コルの声は静かだが、確かに届いた。周囲の人々は互いを見やり、少しずつ頷く。ミルドは重い息を一つつき、筆を取った。「それで……よろしいな?」

数分の討議が続いた。年長者の一人が小声で問うた。「だが、宮廷はこれをどう見るか。抗議が来たら、村は潰されはしないか」

「抗議が来れば、そのとき再び合意で対応する」リアナは即答した。「我々は変わる。恐れていては何も変わらない」

最後に、幼い女の子の母が立ち上がった。目は赤く腫れているが、声は揺るがなかった。「娘に選ぶ権利を。村が約束します」彼女は筆を取って羊皮紙に署名した。次々と輪が回る。ユグが条文の末尾に新しい注釈を走らせ、それを村長が十字を切るように押印した。合意は形になった。

達成感が一瞬、広場を満たす。誰かが拍手をし、木の床板がきしんだ。子どもがはしゃぎ、羊が遠くで鳴いた。コルはその輪の端で、手のひらに汗を感じた。成功――それは真に小さな成功だった。だが彼は知っている。何かを変えれば、代価が来る。

夜が近づいた。祭壇の傍らに立つ小さな油灯が、風に揺れて薄暗い光を落とした。コルはその灯りに触れたいという衝動に駆られ、ふっと手を伸ばした。右手の指先が燭台の縁に触れたとき、光は熱を帯び、肌にほんの一瞬ひんやりとした感触を残した。

その瞬間、目の前に映像が走った。白い扉が幾つも並ぶ廊下、子どもの頃に見た遠い街並み、そして一つの扉だけが瑠璃色に光っている。コルはその扉に近づく自分を見た。指を伸ばしたその瞬間、瑠璃の扉が指の届く前に音もなく閉まった。鍵の音はしなかった。ただ、光がするりと剥がれ落ち、廊下から一つの影が消えたように、ある未来が無かったことになった。

目の奥に冷たいさざめきが走る。耳には、どこか遠くで紙をめくるような、脆い音が響いた。コルは息を飲み、手を引いた。油灯の炎がふらつき、影がひとつ消えた。そこには空白が残るのみだった。

「コル?」リアナの声が近づく。彼の顔を覗き込む。ユグもすぐに側に来た。「どうした、顔色が悪い」

コルは言葉を選んでから告げた。「あの灯りに触れたら、未来の一つが消えた。――『選べる未来』が、ひとつ減った」

静寂が降りる。村人の喧騒はまだ背景にあったが、彼らには一瞬遠いものとなった。ミルドが腕を組み、視線を落とす。「そんなことがあるのか?」

「ある」コルは首を振った。自分でも驚くほど冷静な声だった。「私の力には代償がある。誰かの運命を一方的に決めれば、私の選択肢が一つ消える。それがこれまでの理(ことわり)だと認識していた。だが……今夜は、ちゃんと全員の合意を取った。なのに消えた。理由はまだ分からない」

ユグは羊皮紙を撫でながら言った。「合意の範囲に、誰かが含まれていなかったということか。あるいは、制度そのものに手を入れたことで、制度の側が反応したのか」

「どちらにせよ、これは計算外だ」リアナが前に出た。顔に怒りが浮かぶ。「コル、無茶はするな。あなたが一人で背負うには重すぎる」

コルは微笑んだが、それはひどく薄かった。「無茶をするつもりはない。だが今は、村が選ぶ自由を取り戻した。私はそのために得た代価を受け入れるしかない」

そう言いつつ、彼の右手を見た。手の甲には小さな瘢痕のようなものが一瞬ちらついた。誰にも見えないはずの、消えかけた影の跡。そこに触れると、またあの遠い紙をめくる音が胸に響くような気がした。

灯火の先で、遠くの丘に立つ影が動いた。黒い毛皮をまとった使者が、村道を駆けてくる。騎马の鈴が金属的に鳴り、馬の息が夜気を白くする。使者は全速で来て、息も切らさずに広場の中へ飛び込んだ。手には折りたたまれた羊皮紙を持っている。村の者は一斉に身を引いた。コルはその羊皮紙の印章を見て、顔色を変えた。

「――王都より、儀典長ヴァロム・セレンの指示」使者の声は震えている。彼は紙を広げ、書面を読み上げた。「肖像画の演出強化。各地方に派遣せよ。絵に用いる光と移動を工夫し、公衆の感情を統制すること。違反あらば……」

言葉は歯切れなく消え、しかし受け取った衝撃は確かだった。コルの手のひらに、再び影が集まる感触があった。油灯の光が今度は遠くに引き、肖像画というものがただの飾りではなくなっていく予感が、広場をざわつかせた。

リアナが低く唸った。「肖像画を使って、感情を演出する……それは、合意の重みを奪う術だ。表象で人々の判断を誘導する。選択の自由を剥ぐための構図」

ユグは紙を指で追いながら呟いた。「儀典長がそれを命じるということは、宮廷が動き始めたということだ。私たちの今回の合意が、全体への刺激になったのかもしれない」

ミルドは唇を噛んだ。「つまり、村が変えたことを咎めるのではなく、逆に