療養院の悪役令息は側近と国を離れる 第8話「第7章」
朝の光が療養院の温室を薄く透かしていた。ガラス越しに植木鉢の土の匂いと消毒液の匂いが混じり、アルヴェルは指先で発見文書の端をつまむようにして歩いた。ミレーナ――療養院の統括看護師が、片手に書類、片手でローブの裾を掴んで近づいてくる。足音は靴底のゴムが砂利を噛むような音で、空気の冷たさがそれを鋭くする。
朝の光が療養院の温室を薄く透かしていた。ガラス越しに植木鉢の土の匂いと消毒液の匂いが混じり、アルヴェルは指先で発見文書の端をつまむようにして歩いた。ミレーナ――療養院の統括看護師が、片手に書類、片手でローブの裾を掴んで近づいてくる。足音は靴底のゴムが砂利を噛むような音で、空気の冷たさがそれを鋭くする。
「アルヴェル様、患者――マーヤさんがまた夜中に暴れて、今朝は体温も高く。医務室では、旧規程に基づいて班区画に収容する以外の手立てはない、と言っております」
ミレーナの声には疲労の縺れがあった。アルヴェルはマーヤの顔を思い浮かべた。薄いそばかす、裂けた繭のような手、昼の庭でセーターの裾を引っ張って立つ小柄な影。彼らは皆、それぞれに「役割」を与えられていた。アルヴェルはそれを変えるために書類を持ち込んだ。けれど、変えさせるには同意が必要だ――彼自身の能力は当事者全員の合意を経てこそ効力を持つ交渉の術であり、独断で運命を塗り替えれば、自分の選択肢が一つ消えるという代償が伴う。
「班区画へ戻すべきだという主張は理解している。だが、マーヤの発作はこの建物の配置が原因の一つでもある。窓際のベッドに移すとか、外部の療養施設へ短期移送するとか――それには院内委員会の全員合意が必要だ。手順はこれだ」アルヴェルは用意していたメモを差し出す。公開の読み替え、三昼夜の熟議、独立した評議人の立会い。透明な投票。誰にも特別扱いを与えない手順を細かく並べた。
ミレーナは眉を寄せた。「三昼夜がないと、今すぐの危険に対処できません。院長は法に従うべきだと――」
アルヴェルは紙の端を噛むようにして、やわらかく首を振った。「法が即座の拷問を規定しているなら、法は人を守るために解釈されなければなりません。だが、私は独りで誰かの運命を奪うことはしない。皆で決めるなら救える道があるはずだ」
そのとき、内部の廊下の向こうから不規則な声がした。マーヤだ。叫びと呼吸の荒さ、床を引きずる布の音。ミレーナが顔色をさっと失い、アルヴェルの胸の奥に冷たいものが落ちた。手順を守る余裕など、わずかにしかないのだ。
場面は切り替わる。療養院の外、石造りの通りを短いパンプスで歩くイーリは、屋外の空気を大きく吸い込んだ。路地の陰で、彼女は声を潜めて言う。
「ヴァルド伯、あなたは名を貸すだけでいい。評議に対する圧力を与えるための数が欲しいの」
ヴァルドは頬を掻き、外套の襟を上げた。彼は小さな反逆心と大きな恐れを同時に抱えた男だった。街の噂話で首を結ばれたくない。だがイーリは目を逸らさず、手のひらを開いて一枚の写しを差し出す。アルヴェルが持ち出した文書のコピーだ。
「彼は、ここを単に"役割を配る施設"と呼んでいた人間を黙らせるつもりはない。だが、ここで何かが変わると分かれば、あなたにも得るものがある。それに――あの人は命を賭してまでは求めない」イーリは柔らかく言った。自分がどれほど強硬になるかを彼女自身がよく知っているからだ。
ヴァルドは息を吐いた。「わかった。名は貸そう。だが、節度は保つ。私の地位には手を触れさせないでくれ」
イーリはわずかに笑い、彼の手を握った。「節度は私が決める」
その間にも、アルヴェルの周囲では小さな噴出が起きていた。患者たちの恐れは姿を変えて職員の不安となり、職員の不安は院長代理の強硬な決定を呼び、強硬な決定は隣接する自治会の介入通告を生んだ。外部の声は増え、イーリの連れてきた連中――反制度派の少数貴族、元官吏のセラン、やり手の弁護士見習いが集合してくる。彼らはそれぞれの理由で手を貸すが、誰もが自分の条件を持っていた。
アルヴェルは会議室の長テーブルで、椅子の背を爪で撫でながら待った。出席者がそろうと、イーリは先に着いていたセランと短い口論を交わしていた。自然に輪ができると、アルヴェルは立ち上がった。窓の外で風がビー玉のような湯気を揺らし、遠くでカナリアの鳴き声が聞こえた。静かな喧騒。
「我々は、合意の手続きを守る。書面に署名し、公開で議論し、拒否権は個人に残す。だが――」アルヴェルは視線を各人に巡らせた。「ただし緊急時には臨時措置を講じる。臨時措置は、全員の賛同が間に合わない場合にのみ認められる。だが僕は、その場合でもできる限り誰の運命も一方的に決めたくない」
セランの顔に短い影が落ちた。「臨時措置を認めると、あなたが後で独断で何でも決められるんじゃないか」
アルヴェルはそれを予想していた。「だから臨時措置も手続き化する。証人を立て、理由を書面に残す。さらに、臨時措置を使った場合、その代償はきちんと公示される。私の能力には代償がある。それを隠すことはしない」
誰もがそれで納得したわけではないが、議事は進んだ。外ではイーリが新しい協力者たちと策略を練っている。内部ではミレーナが看護師たちに促され、患者たちの代表がひとりずつ質問をする。アルヴェルは一つずつ答えていく。言葉は慎重で、動作は緩やかだ。だが胸の鼓動は止まらない。マーヤのうめきが窓の外からも届く。
午前十時。医務室から急報が飛んだ。マーヤの体温が四十度に迫り、痙攣の兆候があるという。院長代理は、旧規程の条項を根拠に即時の「行役区画」収容を宣言する文を差し出した。院長代理の手は震えていなかった。法律の条文だけを握り締め、目は白く光っている。
アルヴェルは体が一瞬固まった。手順を守れば三日必要だ。だが三日は最悪の三日になるかもしれない。誰かの命がかかっている。ミレーナの目がうるんだ。看護師たちの指先が紙を突いている。
「私に時間をくれ」アルヴェルは言った。だが院長代理は首を横に振る。「法は救いにならない。今の危機に対しては、私に従え、と明瞭に示している」
アルヴェルの胸に、能力の冷たい輪郭が浮かんだ。使えば救える。ただし代償がある。彼は自分の心の中で五つの選択肢を数えた。家を出るか留まるか、側近と逃げるか公に戦うか、名を捨てるか――。一つが消える代償を受け入れるなら、今すぐマーヤを動かせる。受け入れなければ、手順を貫いても、結果的に犠牲は避けられないかもしれない。
マーヤの呻きが、アルヴェルの耳に針のように刺さった。彼は紙を強く握りしめ、指先に血が通うかのような熱を感じた。手は震えたが口は乾き、言葉は紙をめくるように静かに出た。
「臨時措置を行う。私が、マーヤの一時的転送を認める」
彼の声は、あまりにもあっさりとした判決のように響いた。会議室の空気が一瞬凍りつく。ミレーナが嗚咽を漏らし、セランが硬く顔を作る。院長代理の顔色は一層白くなった。イーリは目を細めたが、肩の力は抜けていた。
アルヴェルは立ち上がり、見えない力を使って文書の条項を読み替えようとした。その瞬間、身体の内側で何かが切れるような感触が走った。胸の奥に冷たい空洞が現れ、そこにあるべき一つの可能性が吸い出されるようだった。彼は瞬間的に、自分の名が国の公簿に記されている位置がぼやけるのを見た。家門の紋章がひとつ、紙の上で薄れていく。彼はその光景に目を凝らしたが、それは既に手の届かないところへ消えていた。
「何が――」ミレーナが呟く。
アルヴェルは手元の写しを見て、目