療養院の悪役令息は側近と国を離れる

療養院の悪役令息は側近と国を離れる 第21話「第19章」

白磁の床に午前の光が横たわる療養院の大広間で、薬瓶が並ぶ台に置かれた紙片がひらりと舞った。アルヴェルはそれを指先で押さえ、顔の前に引き寄せて細字をなぞる。文字は古く、たくさんの訂正印と朱の注釈が重なっていた。向かいではイーリが腕組みをし、眉を寄せて地図──院が作った工作地図──を指していた。小さな光が一つ、また一つと増えている。窓の外の国全土を示した版図の上で、療養院の支部から矢印で伸びる光が点滅していた。外で起きている波が、ゆっくりとこちらへ寄せてくる。

白磁の床に午前の光が横たわる療養院の大広間で、薬瓶が並ぶ台に置かれた紙片がひらりと舞った。アルヴェルはそれを指先で押さえ、顔の前に引き寄せて細字をなぞる。文字は古く、たくさんの訂正印と朱の注釈が重なっていた。向かいではイーリが腕組みをし、眉を寄せて地図──院が作った工作地図──を指していた。小さな光が一つ、また一つと増えている。窓の外の国全土を示した版図の上で、療養院の支部から矢印で伸びる光が点滅していた。外で起きている波が、ゆっくりとこちらへ寄せてくる。

「ルアンが、今日は自分の名を言ったそうです」イーリが低く言った。声の端に、驚きと喜びが混ざっている。「最初に三文字、呼吸の調子を整えながら。でも、医師が記録を見せてくれました。自分で食べたいものを指差した。小さなことでも、院内では革命みたいなものです」

アルヴェルの瞳は沈黙のまま、紙の行間へ落ちていった。古い制度文書の頁には、「療養の対象は保護されるべし、社会的決定権は監督官の所轄に属す」という句があり、そのすぐ脇に手書きで「代表による同意可」と書かれていた。代表──だれが代表を定めるのか。その「代表」は、当事者全員の合意でなければ意味を成さないはずだった。

廊下の方から足音が速く近づく。看護師長のアデラが慌てて入ってきた。額に汗が光っている。「閣下、外から使者が来ています。宮廷の監査官──ジャルマンの名がありました。院の自治を一時停止する命令だと」

その言葉で部屋の温度が変わったように感じた。イーリがすっと息を吸い、アルヴェルの方を向く。唇にわずかな震えがある。「来ると思っていました」

監査官の到来は、成功の余韻を引き裂く。院の研究チームは拍手を控え、患者たちは戸惑いの目を向ける。外の光――地図の光の流れ――は一瞬ひるがえるように点滅した。

監査官は黒い外套に白い手袋、冷えた表情で挨拶もそこそこに命令書を差し出した。「療養院の権限は暫定的に停止、監督官が全権を代行する。公共治安および身分確認のため、患者の一部を国施設へ移送する。違反者は断罪の対象となる」

その「断罪」という単語が大広間の空気を固める。断罪劇──この国で、罪と罰をひな型に配し、人の運命をあらかじめ組み立てた宮廷の演目だった。アルヴェルはあの劇の筋書きを一度押し付けられ、舞台の悪役令息を演じた記憶を持っている。彼にとって、断罪は身体的な痛みではない。人から「選ぶ」自由を奪われることが、最も重い傷だ。

「監督官がおっしゃることも分かります。だが、院は独自の研究のために外部と合意した契約がある。少なくとも患者の扱いは、院と患者代表の同意を得てからでなければ」イーリが反論した。彼女の声は冷静だが、そこには火花が散る。

監査官は薄く笑った。「代表の件は、宮廷の記録で既に否定されている。国家の安全が関われば、個々の意思より制度の維持が優先される。貴下の言葉では対処しきれない」

イーリの目がアルヴェルを見た。そこに質問がある──どうするのか。アルヴェルは紙片に目を落とす。もう一度、朱の注釈を辿る。誰も気づかないほど細い線で、ある言葉が横罫に隠れていた。――「合意の代表は、当事者全員と合意したとみなす場合、合議によって選ばれる」。その下には別の走り書き。「ただし、代理行使は本人の意思に反してはならない」。

イーリがそっと言った。「『合議』。これ、院が実質的に成立させたやり方に合うと思います。私たちが代表を選べば、患者たちが一斉に署名しなくても法的効力を持つかもしれない」

だがアルヴェルの胸に冷たいものが浮かんだ。彼には、その条文を"読む"ときの癖があった。古い制度文書を、当事者の合意に基づいて読み替えること――それが彼の持つ、そして利用してきた力だった。合意が成立していると国や宮廷の書類に認めさせることで、運命の書き換えを引き出す。だがいつも条件が付いてくる。自分が一方的に誰かの運命を決めた場合、その代償として自分の選択肢が一つ消える。今までそれは抽象的な代価に思えたが、彼はそれを現実のものとして感じていた。

「彼らの多くは、声を出せない。意思表示できない人もいる」アデラが声を震わせた。「ルアンも、そうです。署名する術がありません。代表を立てれば即刻移送を止められる。けれど……」

「代表を『立てる』と、それはある意味代表の『決意』を代行してしまう。私がその代行をする──つまり彼らのための決定を私一人で引き受けた瞬間、代償が発生する」アルヴェルは言葉をゆっくり吐いた。掌の中に、いつも持ち歩く小さな封印印があった。彼が幼い頃、家族が代々持たせたという象徴的なもので、彼の『選択肢』を象徴するものと、自分では冗談めかして呼んでいた。今、その印章がひりつくように熱を帯びる。時間の感覚がぎゅう、と縮まった。

イーリはアルヴェルの顔を凝視した。「どの選択を失うのか、具体的に分かるんですか?」

アルヴェルは小さくうなずいた。彼が未来に持っていたプランの一つ、最も大事なもの──イーリと国を離れるための段取りの最後の一押し。彼は何度もその選択肢を脳内で繰り返し、抜け道を残してきた。だが代償は、確率のように振り分けられるのではない。彼が誰かの運命を"決める"ために一手を使えば、その重みが彼の持つ選択肢をそぎ落としてしまう。どれが欠けるかは、使った行為の性質が定める。

「もし私が、ルアンたちのために代表を選び、合意を成立させたら……僕は、君と二人で国を出るための一点が、なくなるかもしれない」アルヴェルの声は冷たくも柔らかかった。イーリの肩が僅かに震え、彼女はそれを押し殺すように笑った。「あなたがその代償を受けるのは構わない。だけど、私を巻き込まないで」

その瞬間、院内の誰かが椅子を倒す音がした。患者の一人、やっと発語したばかりのルアンが、薄い声で「いやだ」と言った。言葉は細く、しかし確固たる拒絶だった。彼は自分の運命を他人に決められたくない、という感情を示していた。アルヴェルはその顔を見て、胸が引き裂かれるようだった。

「彼らの意志を代弁してはいけない」アデラが言った。「代表を立てるなら、まずは院の内部で代表選挙を行ってください。たとえ時間がないとしても、選ばれた代表が署名すれば、合意は成立します」

だが監査官の指は冷たく、彼の傍らに待機する衛兵たちの足音はすぐそこに届いている。時間はない。移送の開始は差し迫っていた。院の患者が自力で代表を選ぶ余裕は、身体的・精神的にない者が少なくない。

アルヴェルは封印印を手に取り、掌で転がした。印の縁がまるで彼の内側を削るように感じられた。彼は知っていた――自分が一方的に行使すれば、制度文書の読み替えは機能する。官吏や監査官に対して、新しい「合意の解釈」を押し付けることができる。だがその代償で、彼が大事にしていたもう一つの約束が消える。それは、イーリと二人で国を離れるための「最後の保障」だった。

「やるべきは二つしかない」アルヴェルは息を吐いた。「一つは、僕が代表の意思を代行して即時合意を成立させ、彼らをその場で守ること。代償は受ける。二つ目は、代表の選出を院内のやり方で行い、法的な正当性を得るが、それには時間がかかり、監査官