療養院の悪役令息は側近と国を離れる 第16話「第14章」
石造りの記録館は静寂に満ちていた。古い書物の匂いが、蝋燭の微かな煤と混じり合って鼻腔を刺す。アルヴェル・レヴァンは、机の上に広げられた一枚の図譜を指先でなぞった。紙の縁は黄ばんで、図の線は擦り切れかけている。だが、その一直線に並んだ小さな丸印と、そこに付された文字列――「合意鎖(エリダ)」と書かれた見出しだけは、鮮烈に眼に入った。
石造りの記録館は静寂に満ちていた。古い書物の匂いが、蝋燭の微かな煤と混じり合って鼻腔を刺す。アルヴェル・レヴァンは、机の上に広げられた一枚の図譜を指先でなぞった。紙の縁は黄ばんで、図の線は擦り切れかけている。だが、その一直線に並んだ小さな丸印と、そこに付された文字列――「合意鎖(エリダ)」と書かれた見出しだけは、鮮烈に眼に入った。
「ここにある」と、レオンが囁く。彼の声もまた耳を包む静けさに溶けるようだった。レオンは側近であり、アルヴェルが国を離れるための現実的な糸口を用意してきた男だ。今は手袋を外し、薄暗い光の下で指を組んでいる。彼の髪からわずかに消毒薬の匂いがした。療養院を訪れて以来、彼の身体からはいつも匂いが残っていた。アルヴェルは、その匂いを嫌いでもあり、忘れがたいものとして受け止めてもいた。
「これが……」アルヴェルは図譜をめくり、そこに添えられた注記を読む。字は小さく、細く、かつての設計者が押しつぶされたようにぎゅっと詰め込んでいる。注記の中で驚くべきことが明かされていた。制度の起源、療養院の配置、さらには後宮の「役割配分」に至るまで、全てはあるひとつの論理で紡がれていた。それは、ただ混乱を避けるためではなく、ある階層にある者たちが他者の感情と選択を差配するために作り上げた論理だと。
「合意読み――か」アルヴェルの舌先に、古語の響きが残る。彼の能力を彼自身がそう呼んだことはなかったが、端的に言えばそれは文書や約定の文言を、関係者の合意に基づいて読み替える技術である。だがここにあるのは、その技術と同じ論理を制度そのものが応用しているという記録だった。しかも、最初の設計者たちは、生きている当事者だけでなく、その代表者や代理権、あるいは「保護」と称した通称合意まで文言に組み込み、あたかも同意が得られているかのように押し通した痕跡がある。図譜は療養院の区画図と完全に重なる。記号で示された「合意の輪」は、隔離室、監視塔、告発窓口にまで伸びている。
レオンの掌が机を叩いた。木の音が広い部屋に反響する。
「これ……療養院だけの話じゃない。後宮も、領主の権利も全部、意図的に『同意』させる仕組みで固められている」彼は言葉を噛み締めるように続けた。「つまり、俺たちが今直そうとしてるものと、源流は同じだ。お前の力と、ここの設計者のやり方が――」
「同根だってことか」アルヴェルは言った。自分の胸の奥に冷たい落とし物が落ちるような感覚があった。合意読みは、当事者全員の同意をなしに成立しないという原則がある。だが図譜は、合意の概念がいかにして曲げられ、代理や擬似的な合意で置き換えられたかを示している。もし制度がその手法で縫い固められているなら、制度を相手に合意読みを使うということは、その根本的な倫理を反転させる行為になる。
「ここまで来て、退路を断つつもりはない」レオンが眉間に皺を寄せる。彼の眼差しは自分たちの計画書に向けられている。港の手配、匿名の護送、偽名の通行証。あらゆる『選択肢』を並べ、可能性を分枝させてきた。アルヴェルはその中のいくつかに、少なくとも二度の「賭け」を預けていた。だが図譜を見てアルヴェルは気づく。もし自分の合意読みを制度のように使うなら、ある「選択肢」を代償として差し出さねばならない――彼自身の能力の不可避な代償則がそれを告げる。
「今、ここで何をするべきか」アルヴェルは低く呟いた。答案のように整然とした選択肢が頭の中に並ぶ。療養院に収容されているエルナを連れ出す。彼女はアルヴェルの幼馴染であり、最初に『断罪の役』を押しつけられた被害者の一人でもある。彼女を自由にすることは、アルヴェルの目的の核心だ。だが、エルナを直接的に「解放」するために合意読みを一方的に行使した場合、代償は必ず生まれる。アルヴェルは過去にその代償の一端を味わったことがある。だが今回は、より重い選択が必要な気配がする。
「エルナ自身の合意を取るしかない」とシグリッド司書が静かに言った。彼女は記録館の管理者で、常に冷静だ。薄暗いランプが彼女の頬を照らし、眼鏡の縁が光った。「それ以外に正当な根拠はない。たとえ古文書が制度の悪意を明かしても、現在生きる者の同意なしに動くと、あなたの力は代償を要求します」
アルヴェルは拳を握った。指先に蝋の冷たさが伝わる。合意読みの使用は、しばしば交渉の場で彼を有利にした。だがその都度、何かが一つ、自分の手からこぼれ落ちる感覚があった。今日は、もし彼が一方的にエルナの条項を読み替えて解放するなら、港へ向かうための通行証――つまり彼らが確保していた「脱出の選択肢」の一つが消えるだろう。想像しただけで、胸の中が凍る。
「エルナに会いに行く」レオンがはっきりと言った。「合意は彼女の意志でなければならない。俺が説得する。だけど――」彼は言葉を切った。「説得の成否で、明日の出発が左右される。もしエルナが拒む、あるいは判断能力が不十分だとみなされるなら、吾々は別の手を使うかもしれない。そうなれば、アルヴェル、あなたはその代償を支払う覚悟があるか?」
アルヴェルは息を飲んだ。レオンはいつも直球だ。彼は自分への問いかけを、逃げ道を与えずに提示する。アルヴェルの思考は過去のいくつかの夜へと引き戻される。無理に読み替えた約定のときに消えたもの、忘却された祝祭の一片、ひび割れた未来の一つひとつ。だが今、目の前にはエルナの顔がある。彼女の額に走る小さな赤い痕、療養院で見せた脆い笑み、そして彼女が言った一言――「私を責めていいの?」と震える声で問いかけたあの日のことが蘇る。
「俺は――」アルヴェルは言葉を探した。「エルナの意思を尊重する。だが、もし彼女が同意できない状態にあるなら、代償を払ってでも解放するか、それともここで足踏みして後に引きずられるか。どちらを選んでも、俺たちが失うものがある」
司書が、そっと一巻の書物を開く。そこに挟まれていたのは、療養院の創設時に使われたという模範契約の写しだった。頁の余白に、手がかりのように添えられた小さな字――「代理同意は正当な合意と等価なり」。その一節は、かつて無数の代理人によって用いられ、しかも「代理人」の定義が恣意的に広く取られていたことを示している。つまり、制度は最初から「同意」を偽装するための法的抜け道を用意していたのだ。
アルヴェルはその字面を見て、ふとあることを思いついた。制度の抜け道は、逆に利用できるのではないか。創設時の文言を、当事者の合意を前提に読み替えさせれば、制度自身の矛盾を露呈させることもできる。合意読みは同意が前提だが、もし同意の定義を共同で再定義することができれば――制度の根幹そのものを相手に問いかけることだって可能になる。
「可能性がある」レオンが小さく息を吐く。「だが、そのためには多くの当事者の同意が必要だ。療養院の管理者数人、監視者、被保護者たち。彼ら全員の合意を得るのは、肉声での説得を意味する。合意読みだけでは運べない。交渉を広げるには、我々の窓口を開かないと」
アルヴェルは頷いた。彼は己の能力に寄りかかるだけでは、何も変えられないことを知っていた。だが同時に、文字通り「合意」を得るために町の声を動か