図書館の悪役令嬢は大切な人に謝る 第21話「第19章」
写しが回り始める。長椅子の硬い背もたれに寄りかかっていたレイナは、ページの冷たさが手のひらに伝わるのを感じた。定式院の議場はいつもより窮屈に見えた。窓から入る午後の光が高い天井の木彫りを滑り、金箔の縁取りに当たってちらつく。紙の匂いとインクのにおいが混ざり合い、街の遠い喧噪が薄くなっていく。
写しが回り始める。長椅子の硬い背もたれに寄りかかっていたレイナは、ページの冷たさが手のひらに伝わるのを感じた。定式院の議場はいつもより窮屈に見えた。窓から入る午後の光が高い天井の木彫りを滑り、金箔の縁取りに当たってちらつく。紙の匂いとインクのにおいが混ざり合い、街の遠い喧噪が薄くなっていく。
「写しを配達します。訂正はその場で合意を示したもののみ有効です」――ミオの低い声が、紙を抱えた手から会場へ満遍なく広がった。ミオは図書館で彼女が最初に出会った司書だった。今日のミオは白い書記用の手袋をはめ、端正に折りたたまれた写しの束を持っていた。
写しの表紙には、定式院の紋が押されている。紋の周辺には細い枠線が入っており、そこに「手続細則」の小項目がびっしりと記されている。レイナはページをめくりながら、ふと指の先に触れた余白の一つに目を留めた。そこには、既に誰かが鉛筆で端的に「合意所在確認—必須」と書き込んである。議場の重苦しさを増幅する文字だ。
「表向きは審議を受け入れるのだな」議長席に近い緋色の毛皮を纏ったエドランが皮肉げに言う。彼の目は写しの細則欄をなぞり、その先に罠を見つけたように笑った。「だが細則で縛り直す。合意の形式、承認の手続、代理の扱い……すべてを厳密に定めれば、また同じことだ」
「それを防ぐためにここにいる」セルジュが立ち上がる。彼は軽装のままで、爵位を誇示しない。だがその言葉には筋が通っていた。セルジュはレイナたちの仲間で、血筋は中位貴族に属する。彼の手は微かに震え、だが顔は真剣だった。「私たちの案は、当事者の『能動的な同意』をその場で文章に刻むところにあります。形式だけでなく、心からの合意を—」
「心からの合意など、曖昧だ」エドランが即座に遮った。「では誰が『心』を測るのか。子爵の補佐が測るのか、隣席の女が測るのか? 紙に<心からの同意>と書けば、何でも通る。これでは制度を守るどころか、混乱を招く」
議場に小さなざわめきが広がる。細則を使えばあらゆる裁量が隠れ蓑になる――その可能性を指摘されて、こっち側のある者は顔色を失った。写しのページの端が、ミオの手で静かに押さえられる。
「そこで、実務的な『現場での手続』を入れます」アニカが前に出る。彼女は法廷に長けた弁護士のような語り口で、議題を整理する。「当事者が目の前で同意文に署名し、その場で証人三名が承認の印を押す。署名はデジタル印章ではなく、現物の写しに直接記録される。異議があればその時点で提示して議場が記録する。これが我々の案です」
写しに、誰かが万年筆で小さな丸を描いた。丸の中に、アニカの署名が滑り込む。紙がわずかに溶けるような感触をレイナは覚えた。写しの文字が、手が触れた方向に細く伸び、彼女の視界の端で別の余白に行き着き、そこへ小さな文字が自動的に現れる。だれの意志で動いているのか、彼女には分からない。ただ、議場の写しに――「同意行為の可視化」とでも言うべき現象が立ち現れた。
「見てください」ミオが囁いた。「紙に書けば、そこに記録が残る。承認と同時に、写しが判例としても機能します」
承認の印が増えるにつれ、写しの余白はじわじわと埋まっていった。だが、エドランはさらに深い罠を提示する。彼は笑みを消して、小さな紙片を掲げた。「その写しの効力は、定式院の最終承認によってのみ固定されます。つまり、いくらその場で同意しても、最終承認の際に細則の条文を入れてしまえば、すべて消える」
「だからこそ、その細則の抜け穴を一つずつ検討して、当事者の同意が後から覆されない安全弁を入れる必要がある」とセルジュが応じる。「それを証明するための――実地試験が必要だと、我々は言っている」
実地試験。言葉が議場に落ちると、誰かの指がまた一枚の写しに触れた。目の前で文字が巡る。だれが最初に名乗りでるのか。空気は張り詰め、石の床に人の心臓音が反響するようだった。
「私が名乗り出よう」小さな声がした。周囲よりも低く、確信に満ちていた。セルジュでもアニカでもない。レイナの隣にいた、年若い使用人風の女性が立ち上がる。マユ──以前に城の厨房でレイナが助けた少女だ。彼女の眼には決意が宿っていた。手はわずかに紙の端を握りしめている。
「マユ?」レイナが顔を向けると、マユはレイナの掌を一瞬見つめ、頷いた。「私は、十年前からの拘束条項で、未婚女性は親の承認がないと配偶を選べないとされています。今日、それを『取り消す』わけではない。ただ、この場で私が自分の意志を示す。これが私の同意です。これを記録してください」
議場の空気が張り裂ける。こんなに小さな声が、制度と対峙する――その光景は、だれの胸にも何かを突きつけた。反対派の什器がぎしりと音を立てる。エドランは眉をひそめた。
「使用人の同意は何の効力もない、と言い切る者もいるだろう」彼が言う。「経済的な圧力、主従関係の影響、全てが問題になる。証人の独立性をどう担保するのか」
「証人はこの場にいる者の中から、互いに無関係であることを確認して選ぶ」アニカが答える。「そして同意を行った者は、その時点で写しに署名する。署名の筆跡は後で写しの写しと照合できる。作為的な偽装は時間が経てば検証されます。けれど、試験は即時に効果を見せなければならない」
写しが回り、誰かが紙の余白に指文字で「同意:当事者署名」などと書き込む。実際に署名が交わされると、写しのそれぞれの写しに瞬時に同じ文字列が生じる。その視覚的な一致は、参加者たちの胸に小さな希望を灯した。
だが、その時、議場の空気がざっと冷えた。エドランの裏に座っていた一人の長老が、注意深く光る小さな印章を差し出した。印章には、定式院の「臨時優越」の刻印がある。だれもがその印章の存在を知っていた。古い法典に残された、その印が押されれば臨時の優越権が発動し、通常の手続は一時的に覆される。発動できる者は限られているが、影響は甚大だ。
「あの印が存在する限り、我々の現場の合意が最終承認の場で無効にされる可能性が残る」とエドランが冷たく言った。「先に進むなら、そこの抑えも論ずる必要がある」
その瞬間、レイナの胸のひとつの角がきしんだ。彼女は知っている。制度の力は時に、このように小さな印で人の未来をひっくり返す。彼女の力は、古い文書の文脈を当事者全員の同意で読み替えることができる――だが、その条件はきびしい。全員の合意が必要だ。合意がなければ、読み替えは不成立だし、成立させるために誰かの運命を一方的に押しつければ、代償を支払わなければならない。
代償の感覚が、彼女の内側でうずく。これまでにも、選択を奪うための読み替えを一度、やむにやまれぬ形で行ったことがある。あの時、レイナはある少女を救うために誰の合意も取れず、独りで読み替えを押しつけた。代償はすぐに来た。彼女の胸の中にあった「可能性」の一つが、冷たく抜け落ちた感覚――長くならない、けれど確かな喪失。具体的には、彼女は「ある人生の選択肢」を失った。将来の一つの道、数え切れない分岐のうちの一つが、彼女の内側で消えたのだ。その時の痛みは、刃のように苦かった。
今は――ここで、目の前の一人の命を守るために、その代償