料理の悪役令嬢は後継争いから降りる

料理の悪役令嬢は後継争いから降りる 第20話「第18章」

オルト伯爵の書斎は、夜の冷気を一枚の厚布のように受け止めていた。長机の上には銀の皿、香の立つ燭台、そしてまだ湯気の残る一羽の焼き鶉が置かれている。皿の縁に散らされたローズマリーが、部屋の厳格さを少しだけ和らげていた。

オルト伯爵の書斎は、夜の冷気を一枚の厚布のように受け止めていた。長机の上には銀の皿、香の立つ燭台、そしてまだ湯気の残る一羽の焼き鶉が置かれている。皿の縁に散らされたローズマリーが、部屋の厳格さを少しだけ和らげていた。

「来てくれたか、ミリヤ・フォン・ヴァール嬢」

伯爵は震える指先でフォークを掴む。笑顔、とは程遠い顔だ。皿に手を伸ばす度に、彼の肩に何か重いものがぶら下がっているように見える。

ミリヤは膝まずきはしなかった。彼女は机の向こう側に立ち、黒い布で包まれた小さな籠をそっと置いた。籠からは温かい湯気が立ち上る。中身は、乳臭の控えたポトフ。ごろりとした根菜、少し焦げたベーコン、透明感のあるコンソメ。彼女自身が昨夕仕込んだものだ。

「あなたの子がまだ幼かった頃、庭の西の井戸の水で、このポトフを一緒に食べた、と文書にありました。『レン家雑記』と『冬の詩』、それにあなたの愛人の手記。これらを読むと──」ミリヤは言葉を切り、皿を伯爵の前に差し出した。「同意があれば、相続譜の十七条をこう読み替えます。『後継の意志を欠く場合、保護者は一時的代理を立て、子の成年を待つ』。つまり、あなたの子には直ちに安定を与え、貴方には名誉を残すやり方が取れます」

伯爵はスプーンを置いた。湯気の香りが鼻先を通り過ぎ、幼い日の記憶を引きずり出す。皺になった瞳が少しだけ潤んだ。

「だが、誰が同意する? 連盟の面々は手放すつもりはない」

「だから私は来たのです。一緒に食べてください、伯爵。決断は胃から来ることもあります」

ミリヤは淡々とした口調でそう言い、皿を差し出した。伯爵は戸惑いながらも一口運ぶ。塩の丸み、煮込まれた肉のほろほろした繊維。彼の顔に、ほんの一瞬だけ緩みが走った。

その時、書斎の扉が静かに開いた。シエナが入って来る。彼女はミリヤの盟友であり、戦術家でもあるが、何よりも「場を作る」ことを恐れない女だった。胸に小さな包みを抱えている。

「ミリヤ、明日、レン家の商人町で小さな市が開かれる。人々の声を聞くなら、そこで聞ける。あなたの言葉だけでは連盟の意向は動かせない。私の案は、町の長老会を交渉に加えること。食を介して、当事者以外の『生活』が介入する余地を作るの」

ミリヤはシエナを見た。彼女の瞳は鋭く、同時に確信に満ちている。

「いい考えだ。だが今夜は──」

言いかけたところで、伯爵が立ち上がった。彼の手が僅かに震える。机の上にあった羊皮紙が、微かに光って見えた。古い文字が、今まさにミリヤの魔術的な目に触れようとしている。

ミリヤは深呼吸をした。彼女の能力は、古い制度文書の矛盾を当事者全員の同意で読み替えることを可能にする。だが、その読み替えは「合意」が前提だ。合意なき一方的な改竄は禁忌であり、代償を生む──それは誰もが知っている、あるいは薄々感じている法の補助線だった。

「伯爵、どうしますか?」

伯爵は指先で羊皮紙を撫でた。目はうつろだ。彼の胸にある恐れは、子の未来を奪われることだけではなかった。連盟からの報復、恥、そしてもう一つ──古くから続く因習に縛られた自尊心だ。

「彼らが同意しないならば、子は……」

言葉が途切れた。ミリヤには分かっている。連盟の連中の一角──譲らぬ者がいる。彼らは力と身分の筋書きを守ることで、自身の脆さを補っていた。

「私は合意をとる努力を続けます」ミリヤは言った。だがその声に、いつもの余裕はない。想定よりも連盟の結束は強く、時間は彼女にとって敵だった。

伯爵はゆっくりと息を吐き、椅子に肘をついた。「もし──君が、同意を得られないとき、強硬にこの条文を」彼は紙を指差す。「一方的に書き換えたらどうなる?」

ミリヤは一瞬、迷いを見せた。能力の本質は「合意の翻訳」。だが孤立した場で一方的に書き換えることは可能だ。眼前の羊皮紙に触れて、言葉を繰り替えることはできる。問題は代償だ。

「法律にあるんです」伯爵の声は掠れている。「そうした場合、読み手は一つの『選択』を失う。失ったものはその者の未来の自由だ、と古記録にある」

ミリヤは知っていた。だが言葉にすると現実になる。彼女の手が微かに震え、籠から立ち上る香りが急に遠く感じられた。

「それでも、君は?」伯爵の眼が鋭くなる。「その代償を受け入れるか?」

ミリヤの指先が羊皮紙に触れる。文字は冷たく、硫黄の匂いが鼻を刺した。彼女は合意のないまま、条文の一文を撫でた。黒い墨が、微かににじむ。言葉が彼女の声になり、部屋の空気が変わった。

「相続譜第十七条は、当事者の成年を待つ保護措置を許す」

紙面に波紋が走る。義務と権利が音を立てて位置を変えるのを、ミリヤは見た。だが同時に、心底冷たい痛みが胸を突いた。どこかで、扉が閉まるような感覚。彼女の喉が渇き、口中に木の味が残る。

「やったのか、ミリヤ」シエナの声には驚きと怒りが混じっていた。「それは――」

「書類は変わった。だが君は何かを失った」伯爵が静かに言う。「それは『自らの辞退』を放棄する権利だと書かれている。読み手が一方的に運命を決めたとき、その読み手は自らの退路の一つを差し出すとある」

ミリヤの体が震えた。口の中の甘味が消え、先ほど食べたベーコンの脂の余韻が何故か平坦に塗りつぶされる。思考が一瞬朦朧とした。彼女の目の端で、羊皮紙に押された小さな印章が黒く沈むのを見た。

「そんな……」シエナの手がミリヤの袖を掴む。「合意を得る方法は他にあった。私が町で人々を集めると言ったのに!」

「時間がなかった」ミリヤは吐き捨てるように言った。だがその言葉は自分を守るためのものに過ぎないことを、彼女は知っていた。己の行為の結果を、肌で受け止める瞬間が来た。

伯爵は静かに盃を持ち上げ、ミリヤに差し出す。「我が子のためにやってくれた。謝意は言葉にはならないが……これで少しは眠れるだろう」

ミリヤは盃に手をかけた。銀の冷たさが掌に伝わる。だが呑んだ生姜汁は、いつもの鋭さを欠いていた。味が、平板だ。彼女は自分が何か大切な感覚を奪われたのを悟った。料理で心を動かし、心で合意を作ること──それを成してきた彼女の手札の一つが、確実に薄くなっている。

外で小さな物音がした。報告を受けた使いの一人が駆け込んで来る。

「レナート公が、連盟の四人を分裂させる動きを見せています。彼は秘かに商人会と手を結び、特権の一部を手放すと申し出た。ほかの三人は揺れていると」

シエナの顔が一変する。彼女はすぐに立ち上がり、床に置かれた地図を指で押さえた。「レナートか。彼は自分の利を見つけるのがうまい。私が言った町での市場は、彼の動きを加速させるだろう。彼を利用できれば、連盟を分断できる」

ミリヤは目を閉じた。胸の内に、冷たい事実が沈んでいく。彼女は目的のために動いた。だがその代償は、彼女自身の選択肢を一つ奪った。後継争いから「降りる」という最終的な出口が、遠のいたのかもしれない。

「しかし、奪ったわけではない」伯爵の低い声が聞こえた。「君が失ったものは、『自らの辞退』だが、それを取り戻す道がないわけではない。古い写本に、三つの印章についての注釈がある。三つの印章を持つ者が共同で願えば、読