料理の悪役令嬢は後継争いから降りる 第2話「第1章」
油の匂いと焦げたにおいが混ざり合い、窓の外の朝陽が低い角度で厨房の床を縞模様にする。ミリヤ・ロゼットは半分開いた古い鍋に視線を落とし、木の匙を握る手に力を入ったり抜いたりした。匙は小さく、金属製だ。平たい先端には細かな彫りがあり、祖母が大事にしていたと言われるそれを、彼女はいつも胸元の匂い袋と一緒に携えていた。今朝はその匙が、彼女にとって〈言葉にするための指標〉でもあった。
油の匂いと焦げたにおいが混ざり合い、窓の外の朝陽が低い角度で厨房の床を縞模様にする。ミリヤ・ロゼットは半分開いた古い鍋に視線を落とし、木の匙を握る手に力を入ったり抜いたりした。匙は小さく、金属製だ。平たい先端には細かな彫りがあり、祖母が大事にしていたと言われるそれを、彼女はいつも胸元の匂い袋と一緒に携えていた。今朝はその匙が、彼女にとって〈言葉にするための指標〉でもあった。
「火が強すぎます。姫様、混ぜるのを手伝わせてください」
厨房長のルシアが手早く来て、鍋の火を一段落させる。ミリヤは小さく笑い、匙を差し出す。金属の冷たさが掌に吸い付くようだ。焦げた匂いは利益を失った菜園の夜露を思わせ、胸の中のざわめきを増幅させる。
「大丈夫。これは私が作る最後の朝食かもしれないから」
ミリヤの声に、厨房の空気が一瞬止まった。厨房の端で鍋をかき混ぜていた小僧、トオルは顔を赤くして黙った。彼は昨日、汁を焦がしたことで監督に叱責されていた。ミリヤはそれを蒸し焼きにせずに済ませたいだけだったのだ。
「姫様、昨夜の夜会のこと――」
言葉は彼女の胸に刺さる小さな棘のようで、避けられない。夜会。家の面々が、廷臣が、そして何より書記が待っている。今日は彼女が公に願いを述べる日、ミリヤは後継争いから降りる意思を正式に家と廷に告げるつもりだった。
匙でトロトロのソースをすくい上げると、そこに浮かぶ泡の反射が、書斎で古文書が受ける光と重なった。彼女はそのイメージを振り払おうとしたが、足元に置かれた箱から古い羊皮紙の端を引き抜く動作が脳裏に浮かぶ。継承に関する規定――「継承の舞台(セレモニー・オブ・アクト)」と記された一頁。そこに書かれた言葉は、個人の意思を飲み込み、舞台を整えるためならば人の流れを変える力を持っている。
「姫?」
ルシアの声で我に返る。ミリヤは匙を鍋に戻し、手を拭くと深呼吸をし、胸の鍵をゆっくりと開けた。
昼下がりの書斎は、午後の光で黄土色の紙面が浮き立つ。重厚な椅子に座る父、セレスティン伯爵は額に縦の皺を寄せていた。向かいには母のアンナ、隣席に執政アルノと書記ファンデル、そして妹のイリーナ。床には数人の廷臣が控え、部屋の空気は角が立つように冷えている。書記が開いた箱の中で、羊皮紙の端が風もなく震えた。
「ミリヤ。始めるがよい」
父の声は、銅を叩いたように冷たい。彼は家名と体裁を何よりも重んじる。ミリヤはゆっくりと立ち、胸元の匂い袋に触れた。匙を握る手の感触が、今よりもずっと大きな責任を帯びているように思える。
「私は、ロゼット家の次の継承を望みません。正式に、後継争いから降ります」
部屋に静寂が降りた。書記のファンデルがゆっくりと顔を上げ、羊皮紙に目を落とす。父は驚きの色を出さずに済ませたが、アンナの瞳が鋭く光った。イリーナは唇を噛んで、何か言いかけた。
「理由は?」アルノが尋ねる。廷臣らの視線がミリヤに刺さる。
「私が望む生き方と、継承の舞台で求められる役――それは違います。私は……断罪される役を押しつけられることを、もう演じたくありません」彼女は拳を握り締める。
その言葉は小さく震え、しかし確かに、彼女の声は書斎の高い天井に届いた。父は一度だけ目を閉じ、羊皮紙の端を指先で触れた。
「規定は明確だ。継承の舞台の規律に則って選出する。個人的な欲求は――」
「その規律を、読み直すことができます」ミリヤは間髪をいれずに言った。全員の視線が一斉に彼女に向いた。書記の手が紙の上で止まり、空気が張り詰める。
「読み直す? 何を言っている、姫」母の声は普段よりも柔らかいが、刃のように鋭い。
彼女は胸元の匂い袋に手を当て、匙を取り出した。金属が光を取り込み、冷たく視線を受け止める。匙を紙の上に軽く置くと、不思議なことに羊皮紙の文字の一行が、彼女の目にほんの少しだけ震えたように見えた。
「私には、協定読み直しという術がある。古い規定を当事者全員の合意で再解釈する力です。ただし、条件があります」ミリヤはゆっくりと部屋を見渡した。「一、当事者――ここに記された、あるいはその決定に直接関わる者全員の同意が必要です。二、もし私が一方的に誰かの運命を決めれば、私は自分の選択肢を一つ失います」
言い終わると、部屋の中にざわめきが起きた。アルノが舌打ちをし、書記のファンデルは紙に目を戻しては眉をしかめる。
「どういうことだ。自分で決めれば早いではないか」執政が挑発的に言う。
ミリヤは小さく笑ったが、その笑顔は幽かに痛みを含んでいる。
「昔、私はそれをしました」彼女の声が、過去を引き戻すように低くなる。部屋全体がその話に引き寄せられる。「台所で、トオルが一度、私の作った試作のスープを焦がしてしまったんです。彼は叱責され、何か厳しい罰が決まるところでした。私は彼を守りたかった。だから――私は誰の合意も得ずに規定の解釈を一つ変え、彼が罰を受ける理由を消しました」
一斉に息が漏れた。イリーナの顔が青ざめる。父の指先が、掌の中の銀の印章を強く握る。
「その代償は――」ミリヤは手を胸にやり、確かめるように小さな砕けた金属の欠片を指で触れた。「その時、私の側にあった『選択の印』の一つが消えました。気付いたら、幼いときに父が与えた小さな札が、指の間から消えていたんです。選べることが一つ減った。それがどういう意味かは、今はまだ正確に分かりません。でも、失うのは確かです」
部屋は重く、冷たい湿気のような沈黙が広がる。誰かが、権利と罰の秤のことを思い描いた。アルノは鋭く笑うように首を振った。
「面白い。自己犠牲と呼ぶのはいいが、姫のような者がその程度の賭けをするとは。だが、もし全員の同意が必要ならば、それを得るのは並大抵のことではない。書記、当該者は誰とする?」
ファンデルは羊皮紙を指さした。そこには、継承のための『壇』に名を呼ばれる者たちの名と、関係者の職掌が細かく書かれている。僅かな墨の擦れが、何世代にもわたる手を経てきた重みを伝える。
「この規定に名を連ねた者、またはその決定に影響を与える者。家の長、執政、廷臣……そして、裁定を監督する州の代表らも含めて、です」
ミリヤは匙を握る手をぎゅっとした。掌に伝わる冷たさが、決意をさらに固くする。
「では、質問です」父が低く言った。「お前はそれでも、自ら継承から降りることを望むのか。それには、皆の同意が必要だが、お前はそれでも自らを縛ることができるのか」
「はい。私は自分の人生を自分で決めたい。もしそれが、この家族やこの国のために混乱を生むなら、私は混乱を選びます。けれど、混乱の中でも人々の選択を奪いたくはないのです」ミリヤは言い切った。言葉に揺るぎはない。
アルノが鼻で笑い、何かを提案するように指を鳴らした。「ならば、証を示せ。姫が本気ならば、公開の場で一つの合意を取って見せよ。台所でなく、ここで。今日の午後、廷の会合で――お前の願いと、この規定の読み直しの可否を問う。だが、我々が賛成するかは、姫の態度次第だ」
部屋の中の空気が締め上げられ、ミリヤの心臓が早鐘を打つ。匙の冷たさが、彼女の掌にしっかりと馴染む。古い羊皮紙の文字が、光を