料理の悪役令嬢は後継争いから降りる 第13話「第12章」
石造りの大広間は、いつの間にか厨房の匂いで満ちていた。煮出した出汁の甘い湯気が低く漂い、鉄の大釜のふちで水滴がぽたりと落ちる。ミリヤはそれを見つめながら、埃を被った写本の頁に指を当てた。古く黄ばんだ羊皮紙は、指先にざらついた感触を残す。インクのにじみが条文の一行ごとに影を作っている。
石造りの大広間は、いつの間にか厨房の匂いで満ちていた。煮出した出汁の甘い湯気が低く漂い、鉄の大釜のふちで水滴がぽたりと落ちる。ミリヤはそれを見つめながら、埃を被った写本の頁に指を当てた。古く黄ばんだ羊皮紙は、指先にざらついた感触を残す。インクのにじみが条文の一行ごとに影を作っている。
「ここが、始まりだったのね……」レオンが小さく息を漏らす。胸元の剣は外され、腰にぶら下がる布のエプロンが、彼の肩幅を不思議と柔らかく見せていた。カリナは手に盛り付け用の木杓子を持ったまま、鍋のそばでこちらを見ている。表情に迷いはない。主役を降りたがっていた者たちが、この場にいる意味を、彼女はよく知っていた。
「条文は確かに曖昧だ」と、室内の端に座る宰相ハルトが低い声で言った。彼の指先は写本の余白に触れ、古い誤植をつまむような仕草をする。「混乱の時期に安定を優先した。だが、安定のために何百もの人生を一方的に押し付けてきたことも事実だ。我々はその責任から逃れられない」
「逃れたいのは、私たち全員よ」カリナが皿を渡しながら答えた。熱さで頬が赤い。彼女の言葉には怒りと疲労が混ざっているが、その声は確実に広間に響いた。「だから今、ここで静かに合意を積み重ねる。署名と食事で。皆が匙を差し出したときだけ、条文の読み替えを成立させるの。強制ではなく、参加で」
ミリヤは、写本の一行を指で追った。そこに残るのは「標準台本」と呼ばれる文言。かつての管理者たちが、混乱を抑えるために意図的に残した曖昧さ。それが以後、断罪劇と呼ばれる制度の核となった。彼女の指先が頁の縁で止まったとき、頭の奥であのときの音がした。紙が一枚剥がれるような、選択肢が消える音。
「公に出すか、合意を集めるか――どちらにしても、私はこれ以上、誰かの運命を一方的に決めたくない」ミリヤは言った。声は静かだが、周囲の気配がその言葉を受け止めた。
その瞬間、外の扉が乱暴に開かれ、足音が乱入した。署名のために呼ばれていた下級官吏が、汗を拭いながら駆け込んできた。「女官サラが――今朝、突如、断罪の手続きが進められました。宮中の側庭で、執行が予定されています!」
言葉は広間の空気を切り裂いた。サラは、昨夜までミリヤと一緒に台所の皿洗いをしていた女官だ。彼女は料理の腕を覚えようと必死に学んでいたが、古い筋書きに則れば「悪役」扱いの立場に組み込まれていた。今、文字通り命が削られようとしている。
「待って!」カリナが立ち上がる。木杓子が床をかすめ、音を立てる。「合意が必要だって決めたはずよ!」
だがハルトの顔は硬い。「君たちの時間は既に長かった。手続きを中断するには、正当な理由が必要だ。君たちの勝手な合意で国法を覆せるとでも?」
ミリヤの内側で何かが燃え上がるのを感じた。視線は写本に戻った。能力はここにある。古い文書の矛盾を、当事者全員の同意で読み替える――それが本来の条件だった。だが、この場には"全員"が揃っていない。サラの執行を止めるためには、ハルトの同意を得られないまま、彼女が一方的に決定することもできた。できたが……その瞬間、自分が失うものを彼女は思い知っていた。
「ミリヤ」レオンが静かに彼女の手を掴んだ。「無理をするな。代償が大きすぎる」
ミリヤは、青い光のようなものが胸の中で脈打つのを感じた。能力を起動するとき、いつもその痛みは来る。誰かの運命を強く動かすことは、自分の選択肢を一つ削る。それは文字通り、彼女の未来の扉の一枚が閉じる感覚だった。何度かの小さな使用で、すでにいくつかの扉は削られていた。だが、今回は違う──今回は、取り返しのつかない一枚を失うかもしれない。
「サラさんはまだ、私たちの合意に入っていない」カリナが叫ぶ。「でも、彼女だって選びたいはずよ。静かに話す機会をあげて!」
「時間がない!」ハルトが声を張る。そのとき、宮廷の守衛が一隊、外から戻ってきた。先頭に立つのは、宮廷の若き正統継承者、侯爵ユルグだった。革の手袋の縁が汗で染みている。彼の目はいつもより鋭く、だが躊躇も見て取れた。
「そこまでだ」ユルグが言った。大広間に沈黙が落ちる。「僕は、執行を一時停止させる。だが、合意がなければ永久にはできない。ミリヤ、君はどうする? 公に写本を晒すのか、それともここで一人一人に食事を振る舞って合意を集めるのか」
ミリヤはユルグを見た。彼は、自らの立場を示すのに充分な発言権を持っている。人々の目が集まる。周囲の香りが一瞬、濃くなった。ミリヤは深く息を吸い、口の中に広がる湯気の匂いを確かめた。料理の記憶はいつも彼女を落ち着かせる。味覚と判断はいつも結びついていた。
「私は……」言葉が喉に詰まる。彼女は写本をそっと膝に置き、頁をめくった。ある頁の隅に、当初の管理者の書き置きがある。そこにはこうあった。『群衆の食卓にて、匙を以て合意を得ること、これを条文の代わりとす』。ミリヤは手が震えた。条文自体に、すでに答えが書かれていたのだ。料理を媒介にした合意形成の正当性。まさにカリナが言っていた方法が、公式の抜け道として残されていた。
「これがあるなら――」カリナの顔に笑みが戻る。「書面上は、公に晒す必要はない。皆がこの場で参加すればいいの。匙を差し出すだけで条文は変わる」
ハルトの眉がきつく引き締まる。「それは立法解釈のようなものだ。全員の合意を以てという条件をどう証明する?」
ミリヤは、ふと小さな箱に目をやった。箱の中には、彼女と仲間たちが集めた小さなタグが入っている。過去に彼女が自分の選択を守るため、一枚一枚の「選択札」を仕舞い込んでいたものだ。思い出すのは、能力を使うたびに一枚が消える感触。これ以上、誰かの未来を奪うような使い方はしたくない。だが、サラの命がかかっている。即座の行動が求められる。
広間の向こうで、サラの足音が近づく。彼女は自分の運命を知らぬまま、執行の場へ連れ出される準備をしている。ミリヤは決断を下した。自分の意思で、道を選ぶ。
「私が一度だけ、使います」ミリヤの声は震えたが、揺るがなかった。「全員の合意を得るための時間を作る。サラさんの執行を今止める。ただし、これは私が一方的に決める最後の行為にする。代償は承知している」
レオンの顔に恐れが走る。「ミリヤ、それは――」
「分かってる」彼女が手を振って制した。「でも、ここでサラさんを死なせるわけにはいかない。私が一枚の選択を失っても、人々がこれから自分たちの匙を差し出す場を残す。私の痛みで終わらせない」
ミリヤは写本を抱え、静かに目を閉じた。胸の奥で冷たい刀のような感触が走る。体中の血が一瞬止まったように感じ、そして再び流れるとき、手の中の小箱の蓋がカタリと音を立てた。箱の中の一枚の札が、見えない力に引かれるように消えた。紙切れが消えた代わりに、ミリヤの背筋に重い決定の記憶が刻まれる。選択の一つが取り去られ、二度と戻らないという確かな空虚。味覚がわずかに変わった気がしたが、それが代償なのか、緊張のせいなのかはわからない。
「執行停止。女官サラの手続きはここに到着次第、暫定的に無効とする」ミリヤは声を出した。言葉が空気を震わせ、広間の空気が変わった。守衛が動