星詠みの悪役令嬢は弟を玉座から遠ざける 第9話「第8章」
朝の光は図書室の窓ガラスを薄い金色に磨いたように差し込み、本の背表紙たちは静かに影を伸ばしていた。アイリス・ヴァレーヌは肘を窓枠に突き、掌で頬の熱を押さえた。昨夜の舞踏会で消えた色の残滓が、まだ指先にかすかに残っている。薄紅のスカーフの一筋だけが、そこにあったはずの何かを思い出させるように震えた。
朝の光は図書室の窓ガラスを薄い金色に磨いたように差し込み、本の背表紙たちは静かに影を伸ばしていた。アイリス・ヴァレーヌは肘を窓枠に突き、掌で頬の熱を押さえた。昨夜の舞踏会で消えた色の残滓が、まだ指先にかすかに残っている。薄紅のスカーフの一筋だけが、そこにあったはずの何かを思い出させるように震えた。
「使いっ走りの馬が来てます。御簾の外で大声がする」
ルシアンの声が廊下から届いた。歩幅は速く、鉄の茶器を抱えた従者たちのざわめきが重なった。彼は窓辺に飛び込むと、息を切らして袖で汗を拭った。胸の紋章に泥が跳ねている。
「条解の刃を振るう暇はない、と君は言っていたね」ルシアンは低く言った。「でも、文書はもう出ている。執務室の使者が、セドリック殿を宮殿の学舎へ移すという命令を持っている。大元は枢密院の指示だってさ」
その名を聞いただけで、アイリスの胸がきつく締めつけられる。セドリック。弟は窓外の明るさよりも白く、今は呼吸のリズムが見えるだけの人間になってしまうのだろうか。彼を玉座から遠ざけるために、何を許せるか。何を許せないか――それは常に選択だった。
「君が条解をするなら、今回は共同でやろう」ルシアンは提案のつもりで言った。だが、窓の向こうの街路で、使者の鞭がはためく音がして、言葉は途切れた。
条解。それは古い制度文書の矛盾を当事者全員の合意で読み替える技だった。言葉にした途端、彼女の胸に冷たい現実が戻ってくる。合意がなければ、それは『読み替え』ではなく『決定』になる。――無理矢理に誰かの運命を締め付けるなら、代償を払わねばならない。昨夜、アイリスは一つの選択肢を手放した。結婚の自由の一端が、光の揺らぎとともに消えたとき、彼女はそれを痛感した。代償は血の匂いのように、身体にまとわりついていた。
「ここで全員の合意を取る時間はない」アイリスは囁いた。「でも、やらねばならないこともある」
ルシアンは顔を上げた。「君は言うだろうね、『一人で決めるのは嫌だ』と。だが今、選択の余地がある者は少ない。僕は運搬路を封じる。セレーネは……彼女は港へ走った。密航の手はずを作るつもりだって」
「自分で動くのか」アイリスは驚いた。仲間たちを信じるのは容易ではなかった。彼らは彼女に寄り添ってはいるが、指南役ではない。ここで示すのは自分たちの意志だということを、彼らは示している。
廊下の扉が乱暴に開き、セレーネが顔に風のような赤を残して飛び込んできた。指先には紙切れが一枚。息を整えながら、彼女はそれをアイリスに差し出した。
「枢密院の命令状。けれど、隠し印がある。これは――」セレーネの声が震えた。「ただの運搬許可じゃない。王座のそばへと配属せよ、って。しかも、署名の脇に奇妙な紋様がある。『星に従え』って――」
紙を見れば、そこに残された文字は古びた曲線を描いていた。目で追ううちに、アイリスの胸中で何かが引き締まる。星詠み。彼女が避けていた、光の幻影のような語がそこに踊っている。
「星詠みを幕引きに利用する気ね」ルシアンが低く言った。「それなら彼らは公的な儀式を理由にセドリックを引き離す。人々の前で『運命』と呼べば、異論は出にくい」
「当事者全員の合意――」アイリスは言いかけて止めた。合意を得るには時間がいる。時間は、馬のひづめで削られていく。
使者の声が近づき、外套の裾が窓に揺れた。廊下の向こうで、足音が乱れ、怒鳴り声が一つだけ切り裂かれる。誰かが、無理やりにでも運命を動かそうとしている。
「やるべきことはやる」アイリスは決めた。だが、今回は違った。彼女は自らの手で一方的に誰かの運命を封じる決断を下すことを、できるだけ避けたいと思った。仲間が独自に動いているという事実が、それを促した。ルシアンは衛兵長の懐に飛び込んで遅延を起こし、セレーネは港で呼びかけを上げ、他の者たちは各自の道を行った。アイリスは窓に残り、その動きを見守った。
だが静寂は長くは続かなかった。街路の正面で騒動が起き、続けざまに二つの影が走り込んだ。黒革の手袋に赤い紋章――枢密院の使者を装った男たちだった。先回りしていた者の一人が床に倒れ、刀が空を切る。セドリックの御者が息を弾ませながら廊下を駆ける――彼はセドリックを連れ去るための扇動に絡め取られようとしていた。
窓から見下ろすと、使者の命令状が手から滑り落ち、石畳に転がった。セレーネが走り寄り、飛び蹴りでひとつの策を崩した。だが、相手は数で勝っている。ルシアンの叫びが、空を引き裂くように聞こえた。
アイリスの胸が鋭く疼いた。時間はもうゼロに近い。合意を取り付ける猶予はない。彼女が条解を使うなら、今しかない――無理やりに決定を下す代償を払ってでも。
掌の中で、古い紙の端に触れる。条解を解くときの感触は、いつもと違った。言葉は沈黙の中で反芻され、条文の読み替えは空気を震わせる。だがその瞬間、彼女ははっきりと感じた。心臓の奥、左の鎖骨の下に小さな崩れが起こるような感覚。まるで未来の分岐の一片が音もなく折れた。
「これで――」彼女は低く言って、古い命令状の行間を指で辿った。「この運搬の法的効力は、ここにある紋章が無効である限り取り消す。理由は――枢密院の同意が欠けている。署名は偽造の疑いがある。これにより、今ある行為の一切は暫定的に停止する」
条解を強行した瞬間、図書室の空気が変わった。紙の文字が硝子のようにきらめき、目に見えぬ細い糸が彼女の指先から伸びてどこかへ吸い込まれていく気配がする。ルシアンの顔が一瞬青ざめ、セレーネは唇を噛んだ。
「やったのか?」ルシアンが息を荒げて訊いた。返事をする間もなく、アイリスの舌先に鉄の味が残った。甘い飲み物を思い出しても、それはすでに無味に変わっていた。小さな、確かな喪失。彼女の胸にあった、一つの未来の扉が閉じたのだ。
「ど、どうした?」セレーネが手を伸ばす。アイリスは無理やり笑おうとしたが、笑顔は紙のように薄く裂けた。昨日までならば、少女同士の戯れで取り上げ合っていた小さな秘密が、今はぽっかりと穴をあけている。彼女が代償として払ったのは、単なる嗜好や記憶ではなかった。それは、彼女がいつでも自分自身としての人生を選べる余地の一つだった。
「僕らはセドリック殿を守る」ルシアンは短く言った。「代償がどんなものでも、君はそれを払った。だが知っておいてほしい。君一人の負担ではない」
彼の言葉は暖かかった。だが、アイリスの胸に刺さったのは暖かさではなく冷たさだった。何かが確かに欠けている。夜の舞踏で失った婚姻の余地と、今失った何かが、重なっているのが分かる。その重みで彼女は立つのがやっとだった。
やがて、門の外の騒ぎは沈静化した。黒革の手袋をした者たちは追われ、使者の一人は手錠をはめられて連れて行かれた。セドリックは無事に屋敷の中へ戻されたが、目には新しい恐れが灯っている。弟はマントの端をぎゅっと握りしめ、アイリスの足下に立った。彼の髪に朝露のような光が残っていて、触れると冷たかった。
「姉さん?」セドリックが震える声で言った。彼の瞳に映ったアイリスは、かつての姉ではない。責任を帯び、何かを削ぎ落とした者の顔。それは守る者の顔だ