星詠みの悪役令嬢は弟を玉座から遠ざける

星詠みの悪役令嬢は弟を玉座から遠ざける 第8話「第7章」

夜の書庫は、昼間の喧騒を忘れたように静かだった。重厚な木の棚に並んだ羊皮紙の匂いが、ろうそくの炎に混じって鼻孔をくすぐる。イリスは机の上に肘をつき、掌に残る三つの銀糸を指先で確かめた。細い紐の端に結ばれた布札──それぞれに小さな文字が滲んでいる。「選」「束」「門」。彼女はそれを「選択札」と呼んでいた。数を失うたび、未来の一つが確かに消えるような感覚が胸を掠めた。いまは三枚。これ以上、減らすわけにはいかない。

夜の書庫は、昼間の喧騒を忘れたように静かだった。重厚な木の棚に並んだ羊皮紙の匂いが、ろうそくの炎に混じって鼻孔をくすぐる。イリスは机の上に肘をつき、掌に残る三つの銀糸を指先で確かめた。細い紐の端に結ばれた布札──それぞれに小さな文字が滲んでいる。「選」「束」「門」。彼女はそれを「選択札」と呼んでいた。数を失うたび、未来の一つが確かに消えるような感覚が胸を掠めた。いまは三枚。これ以上、減らすわけにはいかない。

「変えたのか、抄本を――」

声は低く、しかし確信めいていた。テオは机の向こうで眼鏡を押し上げ、改竄した写本の頁を指で押さえている。そこに添えられた朱の注記は、法文の一節を微妙に歪め、慣習的に解釈されてきた「婚姻付随の推定」を曖昧にしていた。天体の符号に関する旧典の一節を引き、「占星詠みによる判定は当事者全員の合意に基づくべきである」と書き換えてある。

「合意がなければ、読み替えは効力を持たない。とあなた自身が言ったはずだ」とイリスは言う。声は冷たく、しかし震えが滲んでいた。テオは肩を竦めた。

「イリス、選択肢は減らせないって――君はそのことを重々承知している。だが、時間がない。王宮は動く。ソレン姫の婚約は来週だ。公に拒絶すれば、ただでは済まない。書面で曖昧さを作れば、交渉の余地が生まれる。合意を作るための『場』をねじ込むんだ」

「あんたは勝手に筆を入れた。私の意思も、手順も飛ばして」

マレンの声が割り込んだ。彼女は門外で聞きつけて駆け込んできたのだろう、胸元の鎖飾りが小刻みに揺れる。荒々しい顔つきの下で、手はまだ震えている。彼女は城内の事務官のいくつかに口添えし、紙片を配り歩いた。下層の書記たちが疑問を抱き、小さな噂が広まるようにと。

「黙ってるよりいい。イリス、これで姫が自由に――」マレンは言葉を探しながら目を奥へと泳がせる。「姫が自分で決める場を得る。あんたのやり方――必要だったんだ」

必要だった。テオの書き込み、マレンの密やかな動き、ソレンの決断──どれも単独では危うい。イリスは掌の札を撫でた。夜の冷気が皮膚のすきまから侵入してくる。彼女はこの能力を「読み替え」と呼んでいた。古い制度文書の矛盾を、当事者全員の同意で解釈し直すことができる。ただし、条件は明瞭だった。全員の合意がなければ読み替えは無効。合意なしに誰かの運命を一方的に決めると、自分の選択肢が一つ失われる――それは物理的に、ここにある札が一つ消えることとして現れる。

「俺たちは――合意を取れる相手が揃っていない」テオは小声で付け加えた。「王宮がそれを認めるとは誰も思っていない。公然と反旗を翻したように見えれば、姫は消されるか牢に入れられる。そうなれば、君が『読み替え』を試みても、形式上は合意がないと言われる。つまり、きみが――」

テオは言葉を切った。イリスは掌の札を見つめる。三枚。三回だけ、理屈を破ってでも誰かの運命を動かせる余地があるということだ。しかしその代償は大きい。どの選択を犠牲にするのか。どの未来を諦めるのか。

「ソレン姫は?」イリスは問うた。心の奥では、答えがわかっていた。外で聞こえた足音が、書庫の扉を開けると止まった。夜空から城壁越しに滑り込んできた冷たい風が、ろうそくの炎を揺らす。入ってきた姫は、昼の豪華さを脱ぎ捨てた薄布のマントを羽織り、目に眠たげな怒りを宿していた。星が彼女の肩にかすかに反射していた。

「私は署名を拒む」とソレンは言い放った。声は確固としていた。書庫にいた四人が吸い込まれるように息を呑む。姫は一歩踏み出し、イリスに近づく。二人の手が、互いに触れる。皮膚と皮膚の間で、夜の星が揺れた。イリスはかつてないほどその温度を覚えた。仲間の自律した選択というものは、最もふところにあるものを晒す時に現れる。

「私はこの婚姻に、私の意思はない。父も、補佐も、国の怖れも、星の言葉だって、私の代わりに語ることはできない。もしあなたが、私の代わりに――何かを決めるのなら、私は拒む」とソレンは言った。言葉のひとつひとつが、書庫の壁に当たって反響するようだった。

その瞬間、外から大きな足音とともに鋼の音がした。門衛の長、レンが顔を出した。彼の目は厳しかった。彼は城の秩序を守る人間だ。こういう事態は秩序を乱す。彼の視線はソレンの肩に、次にイリスに、最後に書庫の隅に置かれた写本に向かった。

「王太后の名において、ここにいる者全員を公聴会に連行する。王宮の秩序を乱す行為は見過ごせぬ」レンは宣告するように言った。

イリスは冷たい汗を感じた。公聴会──形式だけの正義の場で、議員たちの目は既に定められた筋書きを演じる。ソレンの拒否は、王宮の式典の前に潰されるだろう。テオとマレンは、今や、己がしたことの重さを抱えて伏し目がちだった。

「待て」イリスは短く言った。彼女は立ち上がると、机の引き出しから小さな箱を取り出した。箱の蓋を開けると、そこにはさらに細い銀糸が束ねられている。新たな札はない。空の匂いがした。彼女は一枚を取り、掌に載せる。札の布地は冷たくて、紙よりも硬い。文字は擦れて読めないが、それでもそこにある「選」の感触は確かだった。

「聞いて。条件は一つだ。私は当事者の合意がないと読み替えはしない。だが、いま姫が公聴会へ引きずり出されれば、そこで彼女の声は奪われる。文字どおり奪われるんだ。私が一方的に介入したと非難されるだろう。そうなれば、この札が一つ砕けることは甘受する」イリスは言い切った。理性が折れて、感情が顔を出す刹那だった。

「何を言う、イリス。君は――」テオが叫んだ。彼の眼鏡が汗で曇る。

「私は守る。ルカを、ソレンを、それに私たちが築こうとしている場を守るために。たとえ一つの選択肢を失っても、今は誰かの声を残したい」イリスは掌の札を握り潰した。布の端が彼女の指の間で砕け、冷たい粉とともに消えていく。胸の奥に通る鈍い痛み。札が消えた瞬間、どこか遠い記憶の端が引き抜かれるようにして消えた。ルカの小さな笑い声の一節。彼女はすぐにそれを思い出そうとしたが、どうしても直前の旋律が思い出せなかった。

「選択が一つ消えた」とイリスは嗄れ声で言った。「戻らない。覚えておきたければ、今のうちに覚えて。けれど、姫を連れて行かせはしない」

レンは一歩退き、書庫の空気が張り詰めた。外では馬のひづめが走り、遠くに灯が増えた。公聴会が既に準備されている。イリスの読み替えは法の条文を声高に宣言して空気を変えた。テオが書き込んだ曖昧な注記と、イリスの一方的な介入が混ざり合い、形式上は「議論の余地が生じた」と見做された。公聴会はただの見せ物ではなく、今や「合意を作る場」として開かれる可能性を残したのだ。

しかし代償は明白だった。イリスは胸の中で、何かを失った。血の気が引くような虚無感。マレンは彼女の横顔を見て、顎を引いた。

「感謝する。だが、まだ終わりじゃない」ソレンが低く言った。彼女はイリスの手をもう一度握り、星明かりが二人の掌にきらめく。互いの温度が伝わる。二人の間に、言葉にならない約束が流れた。

その時、書庫の扉が再び開いた。外からの使いが、巻かれた羊皮紙を手に走ってきた。息を切らし、紙を