星詠みの悪役令嬢は弟を玉座から遠ざける 第2話「第1章」
王座の間は、朝靄のような香と重厚な絨毯の匂いで満ちていた。高い天井から吊るされた燭台は、まるで星座の群れのようにちらちらと揺れ、窓外の冬の光を鋭く受けて小さな光芒を撒き散らしている。石造りの壁に掛けられた紋章旗は、風もないのに微かに揺れ、来賓たちの息遣いが波のように広がった。
王座の間は、朝靄のような香と重厚な絨毯の匂いで満ちていた。高い天井から吊るされた燭台は、まるで星座の群れのようにちらちらと揺れ、窓外の冬の光を鋭く受けて小さな光芒を撒き散らしている。石造りの壁に掛けられた紋章旗は、風もないのに微かに揺れ、来賓たちの息遣いが波のように広がった。
「――これにて、継承の書式にのっとり、次代の王に相応しきを、カイム・フォン・リーヴァルト侯を宣する」
大喇叭(だいらっぱ)の宣告とともに、広い間に拍手が生じた。拍手は慣習の拍子で、誰かの歓喜ではない。カイムは壇上で、緊張の薄い笑みを張りつけていた。十二歳の少年にしては顔が幼く、髪の色は銀に近い金で、瞳は兄妹を映す鏡のように澄んでいる。彼の袖口に、小さな星形の刺繍が妙に明るく見えた。
アイリスはその場の隅に立っていた。黒絹のドレスが床に重く落ち、つま先にまで冷気が伝わる。右手の甲に触れているのは、祖母から譲られた細い銀の指輪だ。指輪の外周には五つの小さな星が刻まれており、そのうち一つがほんの少し欠けているのを指先で確かめた。欠けたときの感触を、痛みとともにまだ覚えている。星詠みの代償は、形として残るのだと――幼い日から植えつけられた戒めが、冷ややかに腕の内側でうなった。
「カイム殿に祝辞を」と声が降ってくる。だが、アイリスの耳には言葉が波紋のように引いていくだけだった。王座の間で読み上げられたのは、彼らの国の根幹を縫うように書かれた条文。婚姻の規則、継承の書式、星座に寄せられた符号――その一行一行が、今日のための舞台装置だった。
彼女が知っていることは一つだけではない。今日、彼女は「断罪される役」を演じるように求められている。誰もが気づくために。カイムを無傷のまま、次代へ持ち上げるために――だが、彼女はそれを拒んだ。拒むというより、別の道を作ろうとしていた。玉座から弟を遠ざけるために、条文を――読み直すつもりだった。
古びた書板を抱えて壇に上がったのは、王宮の報償官――セドリック・アルネスだった。銀髪に白い衣が映え、長身の彼はゆっくりと頁を開いた。表紙をめくると、古い羊皮紙に幾重もの筆跡が重なっている。だが、彼が朗読し始めると、アイリスの視界には別のものが重なった。
文字の間を、星図が滑り込んできた。羊皮紙の線刻が宙でひかり、星座の輪郭が紙の上に浮き上がる。条文の言葉が、星の線に沿って動き、句読点が光点に変わる。古い書式と夜空が、彼女の眼前で一枚の地図になる――これが、彼女の術の視覚的な端緒だった。
「同意を、得よ」――内側の声が警告した。星詠みの術は、文に星を重ね、解釈の余地を引き出す。だがその解釈は、関係者の合意を必要とする。合意によって初めて条文は『動く』。一方的な押しつけは、術を曲げ、代償を速める。
アイリスはゆっくりと一歩前に出た。長年、演技としての『悪役』を生きることを強いられてきた彼女の顔は、ほどよく整えられた疲労に覆われている。だがその目に、揺らぎはなかった。
「閣下、待ってください」低く、はっきりした声が王座の間に投げ入れられた。誰もが振り向く。王の顔は硬直し、貴族たちのざわめきが一斉に高まる。セドリックは頁を止め、眉を顰めた。
「アイリス嬢。今は――」
「継承は書式だけではない」と彼女は言った。声は広間に吸い込まれていったが、誰も遮らなかった。「書式には、星に由来する附則が重ねられています。十二歳の称号には、星の配列が条件として記されている。カイム殿の年齢は満たされていても、今年の星図は――危険な寄りを示します。私は、その文面の一節を、共同で読み替えることを提案します」
提案は突飛だった。誰もが一斉に目を光らせる。王の顎が動いた。王妃が口元で何かを押し殺した。カイムは瞳を見開いたが、まだ笑みを張っている。
「共同で、とは?」王の声は低いが、好奇心を孕んでいた。
「関係者全員の合意のもと、文言を『現行の慣習』に沿って再解釈します。具体的には――」アイリスは古びた書板を抱えて前へ進み、頁をめくった。そこに描かれた小さな星図は、さっきよりもはっきりと光を帯びる。彼女の手が文字に触れると、紫の光が指先から漏れ、文字と星が踊る。
だが反応は鈍かった。貴族の椅子がきしみ、誰かが鼻で笑った。セドリックが冷ややかに言う。
「合意、か。議会の過半数は必要だ。範囲を越えた要求なら拒むがよい。しかし一つ言っておく、アイリス嬢――その術は、単独で他者の運命を決めるとき、代償を払う。君はそれを忘れてはいないな?」
その言葉に、王座の間の空気が一瞬凍る。アイリスの手は止まらなかった。指輪の冷たさが掌を沁みさせ、五つの星のうち残る四つを確かめる。彼女は笑って見せた。笑いは皮肉にも、自分の意志を誇示するための武器だった。
「忘れていません」彼女は静かに応えた。「だから、私は合意を取ります。あなた方が賛同してくださるなら、読み替えを行います。合意が得られなければ――代償を払ってまでも、弟をその場から遠ざけることはしません。私は、あなた方の判断に委ねます」
だが、実際の判断は遅れてやってきた。貴族と執政の間に見えない糸が張られ、誰もが自分の利益と体面を秤にかける。数名が静かに手を挙げ、同意の意を示した。民衆の代表である市参の一人も頷いた。だが一人、重厚な黒衣の男が腕を組んで立った。彼は王宮の高等官レオン・ヴァン=フィール。宮廷制度の守り手として名高い男だ。
「無理な話だ、と私は思う」とレオンは言った。声は深く、周囲を削るように広がった。「書式は書式として尊重されるべきだ。今の時点での読み替えは――政体に混乱を招く。陛下、セドリック殿、我々は慎重であるべきではないか」
その一言で、合意は揺らいだ。賛同の手が減り、顔に迷いが広がる。アイリスはそれを見て、胸の奥に小さな棘が立つのを感じた。時間は止まらない。壇上の時間は彼女の決断を待ってはくれない。
「――では」アイリスの口元に決意が固まる。彼女は小さく息を吸い、指輪に触れた。「合意が過半に達しないなら、私はこの場で一度だけ、暫定の措置を取ります。完全な運命付与ではなく、暫定の拘束です。弟の即位を一年間延期する。代償は、私の側の選択肢のうち一つを失うこと――それを受け入れます」
広間に沈黙。王の額に青い血管が浮く。だがセドリックがゆっくりと頷いた。
「それは――非常に重い決断だ」
アイリスは目を閉じた。星の光が指先をなぞるように感じられる。だがその瞬間、指輪の小さな星のうちの一つが、僅かにひんやりと震え、欠けた。音はしない。だが彼女には、砕ける寸前の陶器のように内部が潰れる感じが伝わった。胸の奥で、選択肢の一つが音もなく消えていくのを知った。
「――暫定措置を認める」と王が言った。周囲が動揺し、賛成と反対の声が混ざった。セドリックがすぐに書板を取り、古い条文の該当章を念入りに読み始める。羊皮紙の字は星に寄り添い、言葉は一定の力を帯びる。アイリスは指輪を見つめた。欠けた星の隙間から、冷たい夜風が流れ込んだように思えた。
だが、そのときだった。レオンが急に背筋を伸ばし、硬い笑いを吐いた。
「待て。該当章の下に、封印された追記がある。ここ